「死期と死に方」、気になる死に方

1月27日(土曜日)、現在の時は、日を替えたばかりの頃にある。このところの書き殴りの長文を真摯に詫びて、今の私は、心して短い文章を書く心づもりをたずさえている。きのうは月に一度の補聴器の定期調整のために、はるばる神奈川県横須賀市内の大津町まで出向いた。高価な買い物のため、まるで車検みたいなものだな! と思って、私は渋々出かけた。遠いところで買ったことでは、今なお私は、「牛にひかれて善光寺参り」の心境にはなれていない。いや、横須賀市内に住む娘に拿捕されて、無理矢理娘の行きつけの店(眼鏡市場)へ連れて行かれた思いに苛まれている。娘の勝手な言い分はこうである。「こうでもしないかぎり、頑固な父親(肥後もっこす)は安価な集音器で我慢して、よく聞こえる補聴器に買い替えない。だからわたしには、父親思いの優しさがある」。だけど、わが思いは、娘の騙し討ちに遭ったようなものである。もちろん連れて行っただけで、娘が買ってくれたわけではない。高価の支払には、日々細り続けるわが身銭をはたいたのである。高価な補聴器は、わが残余の命にどれほど貢献できるだろうか。元が取れるだろうか。実際のところはこの先わが命短く、銭失いになりそうである。娘が読んだら目を剥きそうな、書くまでもないことを書いた。ここらあたりで止めないと、また長文になりそうである。くわばら、くわばら…。だからこの先は、きょうの主題に切り替えて書くけれど、愉快なネタではない。絶命は人間であるかぎりすべてに訪れ、かつ老少不定のさだめにある。絶命にはだれしも、抗うことはできない。そしてだれしも、「死期と死に方」を気に懸ける。とりわけ、小心者の私は心中、日々こんな思いを浮かべている。(死期の訪れは仕方がない。だけど、死に方が気になる)。もちろん、浮かべてどうなることでもない。だから、なさけない無駄な想念であることとは知りすぎている。そのうえこの思いはわが身だけではとどまらず、茶の間でひねもす相対する妻へもふりかかる。おととい(1月25日・木曜日)書いた文章、すなわち『消えゆく同期入社の仲間』にあっては、同期入社のひとりの訃報のことを書いた。前に届いていたふるさと情報では、生まれてこの方までの友人、渕上喜久雄君の訃報を知った。そして、日を替えたばかりの先ほどには、スマホメールでまた新たな訃報が届いた。それは大学時代において、7人の親友グループを成す中の、ひとりの訃報だった。枯葉が道路に落ちるのを掃くのはわが日課である。所を変えて時を変えて、仲間と親友の命がまるで、枯葉のごとくに落ちてくる。わが身には、残る者の寂しさと侘しさがつのるばかりである。死期はともかく、私はどんな死に方をするだろうか。私は浮かべても、どうなることでもないことを浮かべている。補聴器と入れ歯を外した。寝床に入っても、当分寝付けそうにない。もちろん、寒気のせいではない。