ゴミネタの祟り

1月28日(日曜日)。いまだ真夜中と言っていい時(2:29)の寒気は、わが心身を脅かしとりわけ身体に沁みる。文章を書く私にとってネタ(題材)は、車や動力のエンジン同然である。エンジンが壊れると機械物は、もとよりにっちもさっちもいかない。同様にわが文章は、とうにネタ切れを起こしている。それゆえに私は、パソコンを起ち上げるたびに真っ暗闇の中で、ネタ探しに狂奔している。挙句、探しあぐねて私は、右往左往をするなかでどうにか、ゴミみたいなネタを拾っている。すなわちこの文章は、ゴミネタである。不断の私は、自然界現象(自然界賛歌)、著しいところがある。しかしながら、地震、雷、竜巻、これらに強いて加えて大嵐は、もとより自然界賛歌の埒外にある。言うなればこれらは、人間界にとってはまったく益なしの魔物である。大雪、大雨、大風なども確かに、度を越せば人間界に悪さをする。ながら、魔物とは大違いであり、これらは小悪魔呼ばわりくらいでいいのかもしれない。いややはり、これらのもたらす災害もまた甚大である。一方で、度を過ぎない雪、雨、そして風は、人間界にはかり知れない便益、とりわけ風景をもたらしてくれる。ただ、風のもたらす便益と風景は、雪と雨には敵わないところがある。ところが風とて、風車を回しては人間界に原発に頼らないエネルギーを産んでいる。風は木の葉や花びらには悪さをするけれど、そよ風のもたらす様々な風景は、眺めるだけで私に眼福を恵んでいる。度を越さない雪は雪景色を恵み、一方適度の雨は農作物に潤いを与えて、人間界に食べ物を恵んでいる。地震、雷、竜巻、大風(大嵐)さえなければ、春へ向かってわが自然界賛歌はいや増すばかりである。雨戸を開ければとうに、庭中に立つ梅の木には花が綻びはじめている。庭中のフキノトウは芽だし始めている。庭中の雑草はのちにはわが手を焼かせるけれど、芽吹き初めのこの時期には健気さがあり、いたずらに踏みにじることには気が留める。茶の間のソファに背凭れていると、窓ガラスを通して早々と、わが心が和む光景に遭遇した。これまた庭中に立つ寒椿は、わが世の春と謳うかのように花びらの色の濃くし、さらに花蘂(かずい)には甘い蜜をいっぱい溜め込んでいる。すると、山から番のメジロが飛んで来て、今にも落っこちそうにバタバタしながら、仰向けで蜜吸いに懸命である。しばし眺めている私には、心が和んで郷愁や童心がよみがえる。ひととき、自然界賛歌の極みである。田畑には、大団円さながらに春野菜が育ち始めている。山には山菜が芽吹き、野には菜の花、ノビル、スカンポ、ツクシンボが萌えてくる。川岸にはすでに、ヨモギやセリが緑色を濃くしている。どれもこれもがわが自然界賛歌における脇役、いやその他大勢の役割を十分に担っている。しかし、先日の買い物において私は、一瞬目を逸らしたくなるような人間界の浅ましさに遭遇したのである。売り場には小箱に入ったフキノトウが並んでいた。ところが小箱の中のフキノトウは、わが庭中で見る瑞々しい艶を失くしていた。まもなく、菜の花も売り場へ現れる。人間界の食欲という浅ましさは今や、山菜や野の花あるいは草花さえ相たずさえて、野菜のように促成されつつある。これらにとどまらず人間界の浅ましさは、肉屋でしばし佇みガラス越しに眺めればその極みにある。魚屋へ足を運べばまた、人間界の浅ましさはまた同然である。こうまでしても人間は、浅ましく生き続けなければならない。浅ましさは、人間につきまわる業(ごう)であろう。この罪滅ぼしに私の場合は、おのずから自然界賛歌である。だけど、人間界に悪さだけをする地震、雷、竜巻、そして大嵐は、わが自然界賛歌の埒外にある。いたずらに長いばかりのゴミネタで、骨格のない文章は、夜を徹して書いてもまったく味気ない。それゆえに私は、ご常連の人たちにたいしては、ひたすら詫びるばかりである(3:39)。草臥れ損なのか、寒気で身体は冷え切っている。