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生き恥

星の輝きを見上げれば、きのうの「七夕の夜」(七月七日・木曜日)の天上は晴れ渡り、天の川はゆるやかに流れて、彦星様と織姫様は一年ぶりの逢瀬(デート)を楽しまれたであろう。これは例年と異なり、今年の地上の梅雨明けが早かった幸運によるものであろうか。いや、梅雨はもちろんのこと、天上には地上のような季節があるのであろうか。案外、彦星様と織姫様の人生は、何らの障(さわ)りのない思うままなのかもしれない。ひるがえって地上の人間の人生行路は、障りだらけでそうはいかない。人生のゴールは死である。生まれれば、死ななければならない。確かに死は、つらいことである。だけど、なおつらいのは、死へ至るまでの人生行路である。なぜなら、人生行路は茨道である。艱難辛苦、四苦八苦、ほか、人生行路のつらさを表す言葉には限りがない。ならば、われ「生まれなければよかった」と、思う。もとより、みずから望んで生まれたわけではない。だからと言って、もちろん親を憎んではいない。なぜなら、自分も親になっている。すると子は、わが同様に「生まれなければよかった」と、思っているはずだ、いや、思っている。街角の占い、競輪競馬をはじめとする賭け事に付き纏う予想、だれもが大きく外れても責任はとらず、口八丁にお金を巻き上げている。程度の差はあるけれど、プロ野球の解説者の事前の順位予想は、外れても言いっぱなしでこれまただれも責任をとらない。これらと同列に置くには忍びないけれど、気象庁や気象予報士の予報もまた外れても、責任はとらないばかりか、そんなに非難をこうむることもない。もちろん、外れたほうがいいこともある。しかしながら、へそ曲がりの私には、専門家の仕事ぶりとしてはどうかな? と、常々思うところ大ありである。このたびの台風予報は、おおかた外れた。だからと言って、のほほんとして夏のボーナスを戴くのはどうかな? 門外漢のわが戯言(ざれごと)である。駄文の長い文章に懲りて、きょうは意図して短い文章を書こうと思えば、こんな文章しか書けない脳足りんである。それゆえ、ご常連の人様にたいして、かたじけなく、思うところである。弁解が許されれば私は、予想屋のように端(はな)から無責任ではない。けれど、駄文の責任はとれない。「同じ穴の狢(むじな)」という、成句が浮かんでいる。電子辞書を開いた。「同じ穴の狢:一見関係がないようでも、同類の者のたとえ。ふつう、良くないことをする人にいう」。今週は週末・日曜日(七月十日)だけだったはずの晴れマークは、きのう天気図にきょう、あすと、全天候型に並んでいた。きょうの夜明けの空には朝日が輝いて、予報のはずれは無罪放免である。人為と気象の違いとは言え、「なんだかな…?」と思う、わがひねくれの朝の訪れである。無駄に付け足したがゆえに、またもや長い文章になっている。懲りずどころか、私は十分に懲りている。「生まれなければよかった」と思うのは、生きるものの贅沢なのであろうか。夏の朝はおおむね清々しいのに、ときには迷い言に脅かされることもある。わが生き恥は、死ぬまで消えない。

七夕

七月七日(木曜日)、幸いなるかな! いまだ夜更けの夜明け前にあっては、カーテンを覆った窓ガラスを打つ、雨音は聞こえてこない。それでも、起き立ての私は空のはてをおもんぱかっている。このところの地上には、台風四号のせいで洪水被害をもたらした雨の日が続いている。きょうは五節句の一つ、「七夕」(しちせき、タナバタ)である。天上の「天の川」は増水や洪水なく、ゆるやかに流れているだろうか。輝く星の下、彦星様と織姫様は、待ちに待った一年めぐりの逢瀬を楽しめるであろうか。恋心は、楽しくもあり、切なくもある、人間に与えられた飛びっきりの情感である。それゆえに、果てしなく遠い天上の天気であっても、私は七夕の夜だけは他人事(ひとごと)には思えない。さて、寝起きの私は、きょうこそはごちゃまぜであっても、短い文章を書こうと決意した。それは、私自身は書き疲れて、ご常連の人様には輪をかけて読み疲れをきたしているのでは? と、思うからである。日本列島にあって地震は、三日、二日いや一日さえ空けずに起きている。台風四号は幸運にも予報にいくらか反して、大過なくどこかに去った。呆気(あっけ)にとられたと、言うには語弊がある。しかし、わが胸を撫でおろしている。ところが、実際にはこんな暢気(のんき)なことは言っておれない。なぜなら、いっとき勢いを弱めていた新型コロナウイルスは、またもや猛烈な勢いで感染者数を増やし始めているからである。さしずめ地震とコロナは、「前門の虎、後門の狼」さながらに、災厄、災禍の同居状態にある。ごちゃまぜ文章の最後は、これである。私は電子辞書を開き、なおネット上の記述を読み漁り、自惚(うぬぼ)れにたいする、人様を尊崇(そんすう)する言葉を探した。しかし、探し当てることができず、仕方なくわが造語にすがった。出来立てほやほやの造語は、他人惚(ひとぼ)れである。もちろん、コメのブランド「ひとめぼれ」とはまったく異なり、人様を崇(あが)めそやす言葉である。私は「ひぐらしの記」だけでも十五年書き続けて、ちょっぴり自惚れたくなっている。六十(歳)の手習いからすれば、二十年余も書き続けてきた。これらのことにたいするちょっぴりの自惚れである。ところが、私自身は自惚れてはいけない。実際には、ご常連の人様が自惚れていいはずのものである。だからそれは、他人惚れと言い換えるべきものである。なぜなら、面白味のないわが文章を読み続けることは、並大抵のことではないからである。またまた、だらだらと長くなくなりそうである。それを恐れて、尻切れトンボのままに書き止めである。こんな文章を書いていると、結局、ちょっぴりでも自惚れることは恥じであり、尊崇の気持ちを露わにする「他人惚れ」だけが旺盛である。夜明けの空は、どんよりとした雨空である。地上が雨無しであれば、はるかかなたの天上は晴れて、無数の星が煌めくであろう。手元に短冊があれば、私は生存を欲張らず、「ピンピンコロリを願う」と、書くであろう。

小ぶりの雨の夜明け

七月六日(水曜日)、予報どおりに台風接近のせいなのか、それともすでに余波のせいなのか? 小ぶりの雨が降っている。わが現住する鎌倉地方は、大雨にはならず勿怪(もっけ)の幸いである。こんな言い方は独り善がりであり、厳に慎まなければならない。なぜなら、きのうのテレビニュースは、台風の影響による大雨被害を数々、伝えていた。被害の主だったところは、九州と四国の各県だった。もちろん、わがふるさと県・熊本も、いくつかの地名が被害映像に現れた。確かに、こんな言い方も慎まなければならない。けれどあえて言えば、台風に付き纏う恒例の映像である。災害列島という、ありがたくない異称をさずかる日本の国は、文字どおり常に自然界のもたらす災害に脅かされている。そうであれば大災害は免れて、小災害くらいの年中行事でありたいものである。ところが、それは空念仏にすぎないこととは、私とて過去の大災害で知りすぎている。もとより雨は、農作業(農家)にとどまらず人間界に、様々な実益をもたらしてくれる。いや人間界にとどまらず、草木をはじめ万物一統、限りない恵みをもたらしてくれる。要は、降り方の程度、すなわち雨量の多寡が、恩恵かそれとも禍根かの境目となる。さらに雨は、実体のともなう雨水にとどまらず、人間の情感を豊かにしてくれる優れものでもある。たとえば雨に四季の冠(かんむり)を加えただけの、春の雨、夏の雨、秋の雨、そして冬の雨と記すだけでも、尾鰭(おひれ)をつけて様々な詩的情感が沸いてくる。確かに、雨にともなう詩的情感は、人それぞれに無限大にある。詩的情感を誘う言葉も様々に、もとより限りなくある。浮かぶままに三つほどを上げれば、時雨(しぐれ)、日照り雨(狐の嫁入り)、そして切ない恋心を呼び起こす「やらずの雨」などである。きょうもまた、わが悪癖のままに寝起きの書き殴り文を書いてしまった。本当のところはこのことを書くつもりだった。すなわち、このところのわが身体は、不良に見舞われている。こちらは、わが個人事情である。一方、ようやく収束へ向かうかな? と、思えていたコロナの感染勢いは、またまた日本の国のみならず世界の国々でぶり返している。こちらは世界事情である。個人事情は自己完結(終結)型に、自分自身で解決しなければならない。もちろん、世界事情もこれまた全完結型を望むけれど、こちらは他人(ひと)まかせである。すると、わが個人事情だけは自力で克服(終結)したいと思う。つまるところ、だらだらと長い文章の祟(たた)りが、わが身体不良の誘因なのかもしれない。そであれば明日にでも解決する個人事情であり、じたばたと嘆くこともない。いやむしろ嘆けば、身体不良にとどまらず、新たに精神不良を誘引しそうである。大げさな表現好きの私は、懲りずに書いたけれど、実際には気に懸けることほどもない個人事情である。それより、世界事情の帰趨(きすう)を気に懸けるべきであろう。わが短い余生にあって、いのち終焉までのマスク着用の日常生活は、もうこりごりである。マスク着用の生活にあっては、ひとかけらの情感さえ浮かばず、ふつふつとも沸かない。夜明けの空は、そよ風まじりのそぼ降る雨空である。夏の朝の小ぶりの雨は、にわかにわが情感を轟轟(ごうごう)と滾(たぎ)らせている。

♪前田さんへメッセージ2!!&♪あおばちゃん、ハッピーバースデー♪

前田さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます。
前田さんの長い文章は、大好きですので、これからもよろしくお願い申し上げますm(_ _)mm(_ _)m
そして、前田さんがパワーアップされるのでしたら、こんなに嬉しい事はありません*(^o^)/*\(^o^)/

アジサイの剪定作業、本当にお疲れさまでございました。
実働7時間だと思いますが、アジサイが心の底から好きでなければ、できない事ですから、前田さんへ脱帽致しますm(_ _)mm(_ _)m
アジサイも来年の開花に向けて、嬉しい事でしょうね◎◎◎◎◎◎◎

あおばちゃん、♪ハッピーバースデー♪
これからは、この掲示板にあおばちゃんにも御登場いただいて、『私の青春日記』ですとか、『私のミラクル☆ファンタジー』ですとか(笑)、前田さんの『ひぐらしの記』と同時進行でお書きになっていただきたいなあ〜〜、なんて、心から思っております♪♪

私事、感慨!

「光陰矢の如し」。
「ひぐらしの記」と、ほぼ同時誕生の孫のあおばは、
きのう(七月四日)、十五歳(中三)の誕生日を
迎えました。若い芽はすくすくと伸びて、老い耄れ
はさらに老いさらばえても、感慨つのる一日でした。
誕生日を迎えました。

懸案の剪定作業を終えて

確かに、私自身が種を蒔いた、いやしでかしたことから、疲労困憊を招いている。だからと言って、自業自得という四字熟語は、この際は使いたくない。あえて、現在のわが心境を吐露すれば、「こんなはずじゃなかった」、あるいは「当てが外れた」くらいの表現で留めたいところである。今週の天気予報には晴れマークは週末・日曜日(七月十日)だけであり、きのう(四日)の月曜日から土曜日(九日)までは、雨マークと曇りマークの抱き合わせである。確かにきのうにあっては、寸時の晴れ間もなく曇り空ばかりであり、それどころかちょっと間には、小雨にさえ脅かされたのである。案の定、先週までの喧々諤々の暑さ談義は、すっかり影を潜めていた。「思い立ったが吉日」、得たりやおうとばかりに私は、懸案の一仕事に着手した。すなわち私は、夜がうっすらと明ける五時前あたりから、意識して短く朝御飯を済まし、十二時過ぎまで独り、黙々とアジサイの剪定作業に終始していたのである。周回道路の側壁(石壁)上の山の法面のアジサイは、現住地に宅地を求めたおり、心勇んで私が手植えしたものである。ところが現在は、あにはからんや剪定作業というとばっちりを被っている。このことが、冒頭の文章の引き金をなしたのである。言うなれば、わが浅ましい心が招いた悪の報い(しっぺ返し)である。本来、ずっと楽しめるはずのアジサイは剪定作業のせいで、加齢のたびにずっしりとわが重荷になり替わっている。「もう自分はできない、この先どなたがやってくださるだろうか…」と、悩みは尽きずいやますばかりである。こんなことでようやく剪定作業を終えた私は、ひとりでに笑みがこぼれるほどに安堵した。半面そのぶん、極度の疲労困憊(ひろうこんぱい)に陥った。剪定作業の最後の仕上げは、束ねたアジサイを分別ごみ回収場へ持ち込むことである。草木・落ち葉の回収日は週一・水曜日であり、今週はあす(六日)である。ところが明日は雨の予報であり、だから前日のきょうは、気が揉むところにある。しかしながら現在は、懸案の作業を終えて気分きわめて良好である。書くまでもないことを書いて、結文とするものである。私日記風の「ひぐらしの記」に免じて、お許しを願うところである。この先は、寝床へのとんぼ返りを試みる。身勝手ながら締めの言葉には、「かたじけない」という、短いけれど、平に詫びたい言葉が浮かんでいる。

高橋弘樹様へ 感謝!

このところは長い文章をだらだらと、書き続けていました。
それゆえ、疲労困憊に見舞われています。
だから余計、高橋様の「大、大、大、エール」が心身に沁
みて、癒されています。
心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

☆大沢先生へメッセージです☆

パッションフルーツの三輪目の結実を心より願っております♪♪♪

眠気を我慢されての☆月下美人の開花撮影☆本当にお疲れさまでございました。
暗闇に咲く☆月下美人の白い花☆は、☆最高の美しさ☆ですね☆☆
☆月下美人の一夜の夢物語☆なんだか幻想小説が書けそうな感じもしますが(笑)なんともいえない雰囲気です☆☆

♪前田さんへメッセージです!!

前田さんがお住まいの鎌倉は素晴らしいところだと思っております♪♪
自然が豊富な様子で、アケビやムベの実が見られるなんて、たまらなく羨ましく思います。
ぼくは、植物図鑑でしか見た事がありませんが(大笑)、どちらも紫色ですよね??
母方祖母にアケビの食感を訊いてみた事がありましたが、「バナナみたいだよ」との話でしたので、秋が楽しみなところですね。
後、2週間ぐらいするとセミの大活動時期となりますが、こちらはマンションの外壁にとまって鳴くセミの姿を毎夏目撃して、なんとも言えない違和感を覚える次第です。
やはり、セミは自然の中でが1番だと思います。

きょうも北浦和の地から鎌倉の前田さんへ大大大エールを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

命を惜しむ、この夏

七月四日(月曜日)、寝起きののっけから、開くまでもない電子辞書を開いた。「命あっての物種:何事も命があって初めてできるものだ。死んでは何もできないから、命を大切にしなければいけないということ。物種は、物事のもととなるものの意。」なぜ、わかり切っていることをあらためて電子辞書にすがったのであろうかと、自問する。答えはたったこれだけに尽きる。それは、物種という言葉をしっかりと復習するためだった。人は、「暑い、暑い!」と言って、気象庁は、東京の猛暑日(最高気温三十五度以上)が八日連続になるのは史上初めてと伝え、メディアは連日、わがもの顔で暑さを囃し立てていた。これは、おとといまでである。ところが、きのうは一転、一日じゅう日光が射さない曇り空だった。ときには小雨模様となり、私は妻に急かされて不承不承立っては、いたるところの網戸を窓ガラスに切り替えた。しかし、雨はたいして降らずじまいで、妻への鬱憤だけが弥増した。パソコンを起ち上げるや否や私は、まったく初めての試みで、パソコン上に掲示の週間(今週)天気予報を見た。すると、近づく台風四号のせいであろうか、ほぼ今週いっぱい、雨マークと曇りマークが同居、すなわち重なり合っていた。ほぼと記したのは、週末の日曜日(七月十日)だけに、晴れマークと曇りマークが重なっていたからである。おのずから今週は、あれほど憎たらしく、なんだか悪者呼ばわりにされていた暑熱(気温)は、真夏日(最高気温三十度)さえとどかないままのようである。へそ曲がりの私は、暑さをしのげてうれしいどころか、かなり拍子抜けである。台風が去って、同時に夏が去ってもしたらつらいなあーと、私はバカなことを心中に浮かべていた。人間、いやいのちあるもののすべて、自然界のいとなみに恩恵を得たり、翻弄されるのは、あの世のことまではわからないけれど、この世の常である。「慌てる乞食は貰いが少ない」と言うけれど、夏本来の暑さにじたばたするのはもとより滑稽でもあるし、ばかばかしいところもある。結局、じたばたしなければならないのは、四つ目の親父を台風に替えて、「地震雷火事台風」の恐ろしさくらいである。確かに暑さ凌ぎは、自然界の風、人間の知恵が生み出した数々の人工物を用いれば極めて容易である。ただしこれには、自省するところはある。こんなのんきなことが言えるのは、私には外働きの仕事、また昼日中あって、あえて外出しなければならない用件などは一切なく、茶の間のソファにもたれるだけの生活に甘んじているからである。私とて、たまの買い物おりに、たらたらどころか、だらだらと、流れ落ちる汗には辟易している。だからと言ってとうてい、夏の暑熱を悪者にする気にはなれない。もとより、あらがえない自然界の営みにたいし、目くじらを立てるのは大損だからである。結局この夏も、私は「命あっての物種」という成句をたずさえて、短い夏を「惜しむ」くらいの心構えで、乗り切りたいと願っている。体(てい)のいい心構えとは、すなわち「我慢」である。今週の走りのきょうは、予報どおりに朝日の輝きが絶えた、曇り空の夜明けである。体感に暑さはなく、網戸は窓ガラスで覆っている。自然界の織り成す夏にあって、わずか一週間とはいえ、暑さが遠のくのは、やはり残念無念である。