小ぶりの雨の夜明け

七月六日(水曜日)、予報どおりに台風接近のせいなのか、それともすでに余波のせいなのか? 小ぶりの雨が降っている。わが現住する鎌倉地方は、大雨にはならず勿怪(もっけ)の幸いである。こんな言い方は独り善がりであり、厳に慎まなければならない。なぜなら、きのうのテレビニュースは、台風の影響による大雨被害を数々、伝えていた。被害の主だったところは、九州と四国の各県だった。もちろん、わがふるさと県・熊本も、いくつかの地名が被害映像に現れた。確かに、こんな言い方も慎まなければならない。けれどあえて言えば、台風に付き纏う恒例の映像である。災害列島という、ありがたくない異称をさずかる日本の国は、文字どおり常に自然界のもたらす災害に脅かされている。そうであれば大災害は免れて、小災害くらいの年中行事でありたいものである。ところが、それは空念仏にすぎないこととは、私とて過去の大災害で知りすぎている。もとより雨は、農作業(農家)にとどまらず人間界に、様々な実益をもたらしてくれる。いや人間界にとどまらず、草木をはじめ万物一統、限りない恵みをもたらしてくれる。要は、降り方の程度、すなわち雨量の多寡が、恩恵かそれとも禍根かの境目となる。さらに雨は、実体のともなう雨水にとどまらず、人間の情感を豊かにしてくれる優れものでもある。たとえば雨に四季の冠(かんむり)を加えただけの、春の雨、夏の雨、秋の雨、そして冬の雨と記すだけでも、尾鰭(おひれ)をつけて様々な詩的情感が沸いてくる。確かに、雨にともなう詩的情感は、人それぞれに無限大にある。詩的情感を誘う言葉も様々に、もとより限りなくある。浮かぶままに三つほどを上げれば、時雨(しぐれ)、日照り雨(狐の嫁入り)、そして切ない恋心を呼び起こす「やらずの雨」などである。きょうもまた、わが悪癖のままに寝起きの書き殴り文を書いてしまった。本当のところはこのことを書くつもりだった。すなわち、このところのわが身体は、不良に見舞われている。こちらは、わが個人事情である。一方、ようやく収束へ向かうかな? と、思えていたコロナの感染勢いは、またまた日本の国のみならず世界の国々でぶり返している。こちらは世界事情である。個人事情は自己完結(終結)型に、自分自身で解決しなければならない。もちろん、世界事情もこれまた全完結型を望むけれど、こちらは他人(ひと)まかせである。すると、わが個人事情だけは自力で克服(終結)したいと思う。つまるところ、だらだらと長い文章の祟(たた)りが、わが身体不良の誘因なのかもしれない。そであれば明日にでも解決する個人事情であり、じたばたと嘆くこともない。いやむしろ嘆けば、身体不良にとどまらず、新たに精神不良を誘引しそうである。大げさな表現好きの私は、懲りずに書いたけれど、実際には気に懸けることほどもない個人事情である。それより、世界事情の帰趨(きすう)を気に懸けるべきであろう。わが短い余生にあって、いのち終焉までのマスク着用の日常生活は、もうこりごりである。マスク着用の生活にあっては、ひとかけらの情感さえ浮かばず、ふつふつとも沸かない。夜明けの空は、そよ風まじりのそぼ降る雨空である。夏の朝の小ぶりの雨は、にわかにわが情感を轟轟(ごうごう)と滾(たぎ)らせている。