七夕

七月七日(木曜日)、幸いなるかな! いまだ夜更けの夜明け前にあっては、カーテンを覆った窓ガラスを打つ、雨音は聞こえてこない。それでも、起き立ての私は空のはてをおもんぱかっている。このところの地上には、台風四号のせいで洪水被害をもたらした雨の日が続いている。きょうは五節句の一つ、「七夕」(しちせき、タナバタ)である。天上の「天の川」は増水や洪水なく、ゆるやかに流れているだろうか。輝く星の下、彦星様と織姫様は、待ちに待った一年めぐりの逢瀬を楽しめるであろうか。恋心は、楽しくもあり、切なくもある、人間に与えられた飛びっきりの情感である。それゆえに、果てしなく遠い天上の天気であっても、私は七夕の夜だけは他人事(ひとごと)には思えない。さて、寝起きの私は、きょうこそはごちゃまぜであっても、短い文章を書こうと決意した。それは、私自身は書き疲れて、ご常連の人様には輪をかけて読み疲れをきたしているのでは? と、思うからである。日本列島にあって地震は、三日、二日いや一日さえ空けずに起きている。台風四号は幸運にも予報にいくらか反して、大過なくどこかに去った。呆気(あっけ)にとられたと、言うには語弊がある。しかし、わが胸を撫でおろしている。ところが、実際にはこんな暢気(のんき)なことは言っておれない。なぜなら、いっとき勢いを弱めていた新型コロナウイルスは、またもや猛烈な勢いで感染者数を増やし始めているからである。さしずめ地震とコロナは、「前門の虎、後門の狼」さながらに、災厄、災禍の同居状態にある。ごちゃまぜ文章の最後は、これである。私は電子辞書を開き、なおネット上の記述を読み漁り、自惚(うぬぼ)れにたいする、人様を尊崇(そんすう)する言葉を探した。しかし、探し当てることができず、仕方なくわが造語にすがった。出来立てほやほやの造語は、他人惚(ひとぼ)れである。もちろん、コメのブランド「ひとめぼれ」とはまったく異なり、人様を崇(あが)めそやす言葉である。私は「ひぐらしの記」だけでも十五年書き続けて、ちょっぴり自惚れたくなっている。六十(歳)の手習いからすれば、二十年余も書き続けてきた。これらのことにたいするちょっぴりの自惚れである。ところが、私自身は自惚れてはいけない。実際には、ご常連の人様が自惚れていいはずのものである。だからそれは、他人惚れと言い換えるべきものである。なぜなら、面白味のないわが文章を読み続けることは、並大抵のことではないからである。またまた、だらだらと長くなくなりそうである。それを恐れて、尻切れトンボのままに書き止めである。こんな文章を書いていると、結局、ちょっぴりでも自惚れることは恥じであり、尊崇の気持ちを露わにする「他人惚れ」だけが旺盛である。夜明けの空は、どんよりとした雨空である。地上が雨無しであれば、はるかかなたの天上は晴れて、無数の星が煌めくであろう。手元に短冊があれば、私は生存を欲張らず、「ピンピンコロリを願う」と、書くであろう。