掲示板

望月窯だより2

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 畑の夏野菜が大きくなっていて、きゅうり、ピーマン、
モロヘイヤ、にんにく、サニーレタス、玉ねぎ、春菊など
収穫できた。

望月窯だより1

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 六月二十日から二泊三日で古河市の実家を訪れた。
そこら中草丈が伸びて「夏が来た」を実感した。いつも
一緒に行動している末の妹と二人で今回の野良仕事の
スケジュールを決める。日差しの照り具合で日陰を選ん
で作業を始める。
 大きなポリバケツの池に今年は新しい睡蓮を一株購入
して植えた。池には金魚が三匹生き残っていて、随分
大きくなった。近寄ると水面に口をパクパクしながら
泳いで、餌をねだっている。
 睡蓮の花が咲いた。以前に購入したものは鉢植えに
して沈めていたので根が張りすぎて駄目だったので、
今回はそのまま沈めておいたら大きな葉の間から花が
出てきた。池の底には土が入れてあるので根付いたの
だろう。
 睡蓮の花は、夕方になると花を閉じる。そして日中
になると開いている。そんな姿を目にすると、話しか
けられているような気がして、そばによって見ていた。

樹木の年輪、人体の皺

樹木は、確かな年輪を刻んで生長する。これに関して、自問自答を試みる。人間は、身体あるいは精神のどこかに、年輪を刻んで成長するのであろうか。もとより、バカな問いかけなのであろう。私には、答えが見つかるはずもない。ところが、年輪とは似ても似つかないけれど、ふと一つだけことばが浮かんだ。それは、「年の功」ということばである。知りすぎていて、いまさら電子辞書にすがるまでもないことばである。しかし、電子辞書を開くのは、生涯学習を掲げるわが習わしである。手元にある電子辞書を開いて、それを見出し語にした。「年の功:年をとり経験を多くつむこと。また、その経験の力。亀の甲より年の功。同じ意味の繰り返しになるけれどついでに、亀の甲より年の功を見出し語にした。長年かけて積んできた経験は貴く、価値があるということ。」年をとれば、人体の額には皺が刻まれる。ところがこれは、成長の証しと、言えるであろうか。いやいやこれは、確かな老化あるいは老耄(老耄)、すなわち確たる老い耄(ぼ)れの証しの一つに数えられている。結局、人体にあっては成長の証しと思える、年輪の刻みを見ることはできそうにない。挙句、目では見ることのできない精神的なものでお茶を濁して、年輪の刻みに置き換えているのであろう。すると、ふと浮かんだ「年の功」だけれど、まんざら間違いではなそうと、私は独り善がりにほくそ笑んでいる。このところの数日、私はくだらない文章を長々と書いてきた。ところが懲りずに、きょう(六月二十三日・木曜日)また悪乗りでもしたかのように、身も蓋もない文章を書いている。もとより、くだらない文章を書き続けるより、休んだほうがましだとは心得ている。それでもそれには、身勝手にこんな内幕がある。すなわち、虫けら(私)に宿る「一寸の虫にも五分の魂」という、わずかな志である。すなわち、私はリニューアルされた掲示板が定着するまでは、恥をさらしてでも休まず、何かしらを書こうと決め込んでいたのである。言うなれば、虫けらの束の間の気張りである。幸いなるかな! 掲示板は、ご常連様たちのご好意をさずかり、よどみなく継続にあずかっている。そうであれば、虫けらの一寸の志(大沢さまへのお返し)も、いくらか果たせたことにはなる。ほっと、胸を撫でおろすところはある。しかし、きょうの文章のようなわが柄でもないことを書いていると、くたびれだけを儲けて、私は疲れ果てている。そろそろ、休みたい。夜明けて、梅雨の雨がしとしと降っている。いくらか、大空が明るみだしている。梅雨はぐずついている。私はさ迷っている。きのうの文章とまったく同様の結文である。わが額には無数の皺が刻まれている。もちろん、成長の証しの年輪ではない。

高橋弘樹様へ、感謝!

ご丁寧なコメント、さらにはいつものおねだりの「大、大、大、」エールを賜り、感謝にたえません。ふるさと慕情は、私の生き甲斐であることを察してくださり、重ねて御礼を申し上げます。

祝!!☆前田静良氏『ひぐらしの記』15周年☆!!

前田さん、『ひぐらしの記』15周年、本当におめでとうございます。
心からお祝い申し上げます。
リアルタイムで投稿せずに、たいへん申し訳ございませんでした。
心よりお詫び申し上げます。

参議院議員選挙、ぼくも前田さんと同じく、です。
衆議院の優越、というのがありますから、以前からぼくは参議院はインパクトに欠けるな、と思っていました。
知名度を武器に政党から勧誘された有名な芸能人の方も立候補されたりしますが、今が旬の人、というわけでもないので、盛り上がりに欠けます↓↓
衆議院議員選挙でもそうなのですが、有権者を大魅了する政党やヒーロー&ヒロインのような候補者の方々が現れない、という現実がありますね。
これでは、候補者の名前も政党名も書きたくない、と思うのは当然の事だと思います。

ぼくは、ホタルを見た事がないので↓↓前田さんの『ひぐらしの記』を興味深く拝読させていただいています。
これからも内田村の「懐郷」「望郷」「思郷」「郷愁」「追郷」を大切に『ひぐらしの記』を執筆なさってください。

今回は、「ホタルの光」にちなんで、☆前田さんへ大大大エールを贈ります☆☆☆☆☆☆☆

言葉の使い分けに悩まされている

六月二十二日(水曜日)、参議院議員選挙はきょう告示され、来月(七月)十日が投開票日となっている。これに先立ちきのうは、テレビにおいて党首討論が戦わされていた。しかしながら私は、聞き耳を立てることなく、リモコンスイッチでチャンネルを切り替えた。今回の選挙にたいし、まったく興味が沸かないのである。ところがこの表現は、見識者から「選挙は興味本位でするものではない」と、お叱りを受けるであろう。興味本位という言葉が語弊や誤解を招くのであろうか。そうであれば、「まったく関心がない」と、言葉を変えるべきなのかもしれない。これだけでも言葉の使い分けは、ほとほと難しいと、思うところである。人心みな、ふるさと思いをたずさえている。普段、それを口にしたり、文章にする度合いが少ないだけである。私は、「ひぐらしの記」というブログを書いている。そのぶん私は、人様よりちょっぴり多く、ふるさと思いを文章に表している。もとより、文章の継続には、常にネタ不足が付き纏っている。ところが、ネタ不足を救うことでは手っ取り早く、かつしっかりと二つの事柄(慕情)が位置してくれている。一つは亡き母を偲ぶ、母恋い慕情をとはじめする、今やまぼろしの父やきょうだいたちへのかぎりない慕情がある。これらと並んでもう一つの慕情を成すのは、これまたずばりふるさと慕情である。すなわちこの二つは、ネタ不足に陥っているわが状態を救ってくれるのである。しかしながらこの二つにあっても私は、わが思いを文章にすることでは常に、艱難辛苦を強いられている。きのうの表題『夏至』にあっては、わが子ども時代の「ホタルの光」にことよせて、ふるさと慕情を書いた。このとき用いた言葉は、「懐郷」だった。先ほど、寝床で目覚めたときの私は、知りすぎているはずの言葉を浮かべていた。先駆けては、故郷、郷里、郷土、などの言葉が浮かんだ。さらに追っかけては、先の懐郷、そして、望郷、思郷、郷愁などが浮かんだ。これらを見出し語にして、枕元に置く電子辞書を開いた。どれもが書くまでもない、似たり寄ったりの意味を有していた。すなわち、一緒くたにの類義語である。それでも、新たに学ぶところがあった。懐郷にはホームシック、そして郷愁にはノスタルジアと、カタカナ文字が添えられていたのである。すると私は、望郷や思郷にも、どちらかのカタカナ文字がついて、いいのではないかと、思った。ふと、心中に浮かんだわが造語、「追郷」は、もとより見出し語にはなかった。浅学非才の私の場合、浮かんだのはこれくらいにすぎないけれど、まだまだ無限にある。浮かんだ言葉だけでも使い分けるのは、私にはきわめて困難である。きょうの書き殴り文章の真意は、ずばり文章の難しさである。夜明けは、雨模様である。梅雨の天候は、ぐずついている。私は文章が手に負えなく、グズグズさ迷っている。

『夏至』

「夏至」(六月二十一日・火曜日)にあって懐郷、「内田川」の水面(みなも)の上や、出来立てほやほやの水田上空を飛ぶホタルは、すでに舞い姿を納めているのであろうか。それでも、ホタルに付き纏う思い出は尽きない。子どもの頃の遊び仲間のホタルにたいし私の場合、無粋(ぶすい)な「ホタル狩り」という言葉や情景は、ご法度(はっと)である。わが一方通行的に遊び仲間と言うのは、もちろんホタルにとっては、憤懣やるかたないお門違いである。それゆえに私は、いまになってとことん懺悔したところで、ホタルにたいする罪作りの償(つぐな)いの欠片(かけら)にさえもならないことくらいは知りすぎている。梅雨の晴れ間の夕闇迫る頃にあって、ホタルの光が目先にチラチラしだすと心急(こころせ)いて私は、座敷から上がり框(かまち)を飛び跳ねて、土間へ下りた。ランダム(あちこち)に置かれていた杉下駄の一つをつっかけて、母屋から庭先へ出た。門口に立てかけの竹箒を手にした。飛び交うホタルの光をめがけて、打ち下ろした。畦道や草むらに落ちても、ホタルの光はなお消えず、明滅を繰り返している。ホタルをなんなく指先で拾い上げて、ホタル籠に入れた。いや多くは、拾い上げさえしなかった。打ち下ろすだけが、わが遊び心だった。結局、体(てい)のいい遊び仲間と言うのは、わが嘘の繕(つくろ)いであって、実際にはホタルにたいする、わが一方的虐待だったのである。確かに、わが子どもの頃にあって見ていたホタルの舞う姿は、今でもわが懐郷の上位に位置している。しかしながら今となっては、罪作りの思い出と化して、懐郷ランク下げるべきなのかもしれない。確かに、思い出としては切ないけれど、それでもやはりホタルの光を偲ぶ心は、この先も変わりようはない。確かに、罪償いの懺悔とはいえ、それもまた私にとっては、懐かしい思い出として留め置きたいものである。虫が良すぎるだろうか? と、切なく自問するところはある。結局、遅まきながらの一方的償いは、わが命尽きるまで心中に、ホタルの光を偲び、愛でそやしてやることであろう。「ひぐらしの記」十五周年(六月十五日)は、忘れかけてすでに過ぎ、夏至を迎えている。ふるさとホタルは、すでに今年の舞い納めを済ましているかもしおれない。私は時の流れの速さ感に、アタフタとしている。窓の外に見えるアジサイもまた、早や彩りや艶を落とす後半戦突入である。梅雨どきののどかな朝ぼらけにあって気になるのは、日本列島のあちこちにおけるこのところの地震の頻発である。ふるさとのホタルの光は、日本列島の平和の証しだったのかもしれない。そうであれば、わが罪作り旺盛である。

もう、送稿テストではないけれど…

六月二十日(月曜日)、「夏至」を明日にひかえた、雨のない夜明けが訪れている。窓ガラスを通して見えるアジサイは、彩り七変化(しちへんげ)に見頃を誇っている。現下、日本列島の梅雨の季節にあってこれまでのところ雨は、大過なく梅雨明けへ向かっている。このまま、すんなりと梅雨明けを願うところである。しかしながらそれは、私の欲張りである。なぜなら、実際には梅雨の雨は、日本列島のどこかしこに大きな災害をもたらしたのち、ようやく梅雨明けとなる。だから、どこかが見舞われる雨による災害は、私には日本列島の梅雨明けゴング(合図)と、思えるところがある。もちろん、いまだ梅雨明けまでの中途にあっては、ゆめゆめ気を許すところはまったくない。幸いにも梅雨にあって、雨による災害を免れても日本列島は、天災多い災害列島に変わりはない。この証しでもあるかのように日本列島のどこかには、日を替えて地震が起きている。総じて言えば、頻発である。地震の恐怖が去らないかぎり日本列島は、災害列島の汚名を帯びたままである。このことではもとより、わが終の棲家を構える日本列島には安住は望むべくもない。無論、住み良いと言うのはお預けである。地震さえなければ、大威張りで誇れるのに至極、残念無念である。おとといときのうの二日にわたり、私は大沢さまのご教授を得て、送稿テストを試みた。結果はいずれも成功であり、そのためきょうは、三度目の送稿テストを免れている。送稿テストにあっては、失敗によるくたびれもうけを恐れて、いくらかいい加減に書いた。このことからすればきょうあたりからは、本格始動でいいはずである。もちろん、そのつもりで書いている。確かに、心構えだけはこのところの二日とは違って、明らかに前向きに変わっている。ところが、文章の出来は変わりようなく、あらためてわが能力の限界を知らされている。おのずから、この先を書く気力は乏しく、尻切れトンボに書き止めである。こんな文章、恥をさらしてまで、書かなきゃ良かったのかもしれない。なんだか、くたびれだけをもうけたような気がしている。わが気に反し、雨のない夜明けは、すこぶるのどかである。

再びの送稿テスト

六月十九日(日曜日)、きょうもまた私は、再びの送稿テストを試みている。そのため、くたびれもうけを避けるため、おのずから長い文章は、自制を決め込んでいる。ただし、夢遊病者の如くにヨレヨレの書き殴りのため、この決意の決着は私自身、まったく不明である。もとより、不特定多数の読者が存在するブログにあって、文章を書くのは、ほとほと困難事である。それでも幸いなるかな! 読者は、わが味方と思える人たちに限られている。それに素人ゆえと甘えて、多大の情けを賜り、私は書き続けてきた。確かに、独り善がりの身勝手である。しかしながら身勝手に、そうでも思わないと、文章は書けない。世の中には二つの事柄を並べて、相乗効果という言葉が存在する。ところが私の場合は、脳髄の凡愚と手先不器用を並べると、ずばり相乗減殺(そうじょうげんさい)である。電子辞書を開いても、こんな言葉は存在しない。自分自身だけに通用する、咄嗟のわが造語である。さて、きのうのわが送稿テストの文章にあっては思い及ばず、大沢さまから感涙したたるご丁寧なコメントを戴いた。丁寧には丁寧なお返しこそ、人間たる証しである。私は心して読んだ。ご投稿文の中で大沢さまは、このたびの現代文藝社のホームページのリニューアルにたいしは、ご自身の楽しみのためと、縷々(るる)書かれていた。ところが私は、この表現には真っ向からあらがった。なぜなら私は、読者のためと掲示板の存在意義の継続にたいする、大沢さまの苦悩ぶりをみたからである。私の場合は『ひぐらしの記』を掲示板上で、無料掲載にあずかっている。だから余計、これまた身勝手に私は、大沢さまの苦悩ぶりをありがたく、そして崇めずにはおれなかったのである。それゆえに私は、大沢さまの志にたいし、ありきたりだけれどこの上ない感謝と感激をおぼえていた。再びの心許ない送稿テストゆえに、ここで書き止めにしたいところではある。しかし、起き立てのわが心中に浮かんでいたことを付け足したい気もある。すなわちそれは、「人間、いやおまえは、食べるために生きるのか!」。それとも「生きるために、食べるのか!」と、自問を試みる。生涯にわたり、結論にはありつけない、どっちつかずの永遠のテーマである。ところが私にかぎり答えはかなり後者、「生きるために食べるのだ!」に傾いている。いや命あるもののすべてが、生きるために食べていると言えそうである。「食べるために生きるのか」。そんな、遠回しの一見、きれいごとと思える表現はやめにしたいところである。つまり、庭先にばら撒く白米をせっせと拾い続けて、食べ急ぐコジュケイから学んでいる教訓である。命あるもの、一概には食糧、あるいは食料、身近なことでは食べ物に執着するのは、文字どおり食べることこそ命の糧(かて)になるからであろう。付け足し文にしては、漫(そぞ)ろ長くなってしまった。書き殴りの弊(へい)、とことんかたじけないところである。確かに、再びの送稿テストに躓(つまず)けば、恥はかかずに済む。「雉も鳴かずば撃たれまい」。だからと言って無論、願ったり叶ったりではなく、私は再びの送稿テストの成功を祈っている。実のない書き殴りとはいえくたくたの、くたびれもうけだけでは嫌になるからである。梅雨の合間とは言えない、夜明けの朝日が輝いている。

前田さん、感謝申し上げます

 昨日は私の未熟なワープロの伝達にお付き合いいただきありがとうございます。
teacapから既存の掲示板が終了するという通知をもらったときは、正直言って
悩みました。何の心配も無く利用し続けていたので、終了するなど思いもしませ
んでした。現代文藝社の出版を続けて行くにはやはり読者との交流は欠かせません。
それで当社のコンピューターの管理を依頼している方に相談して、現在のような
新しい掲示板が出来上がりました。今まで投稿いただいたり、訪れたりしてくださ
っている方々には、ご面倒をおかけしますが、今後ともこれまで同様によろしく
お願いします。