言葉の使い分けに悩まされている

六月二十二日(水曜日)、参議院議員選挙はきょう告示され、来月(七月)十日が投開票日となっている。これに先立ちきのうは、テレビにおいて党首討論が戦わされていた。しかしながら私は、聞き耳を立てることなく、リモコンスイッチでチャンネルを切り替えた。今回の選挙にたいし、まったく興味が沸かないのである。ところがこの表現は、見識者から「選挙は興味本位でするものではない」と、お叱りを受けるであろう。興味本位という言葉が語弊や誤解を招くのであろうか。そうであれば、「まったく関心がない」と、言葉を変えるべきなのかもしれない。これだけでも言葉の使い分けは、ほとほと難しいと、思うところである。人心みな、ふるさと思いをたずさえている。普段、それを口にしたり、文章にする度合いが少ないだけである。私は、「ひぐらしの記」というブログを書いている。そのぶん私は、人様よりちょっぴり多く、ふるさと思いを文章に表している。もとより、文章の継続には、常にネタ不足が付き纏っている。ところが、ネタ不足を救うことでは手っ取り早く、かつしっかりと二つの事柄(慕情)が位置してくれている。一つは亡き母を偲ぶ、母恋い慕情をとはじめする、今やまぼろしの父やきょうだいたちへのかぎりない慕情がある。これらと並んでもう一つの慕情を成すのは、これまたずばりふるさと慕情である。すなわちこの二つは、ネタ不足に陥っているわが状態を救ってくれるのである。しかしながらこの二つにあっても私は、わが思いを文章にすることでは常に、艱難辛苦を強いられている。きのうの表題『夏至』にあっては、わが子ども時代の「ホタルの光」にことよせて、ふるさと慕情を書いた。このとき用いた言葉は、「懐郷」だった。先ほど、寝床で目覚めたときの私は、知りすぎているはずの言葉を浮かべていた。先駆けては、故郷、郷里、郷土、などの言葉が浮かんだ。さらに追っかけては、先の懐郷、そして、望郷、思郷、郷愁などが浮かんだ。これらを見出し語にして、枕元に置く電子辞書を開いた。どれもが書くまでもない、似たり寄ったりの意味を有していた。すなわち、一緒くたにの類義語である。それでも、新たに学ぶところがあった。懐郷にはホームシック、そして郷愁にはノスタルジアと、カタカナ文字が添えられていたのである。すると私は、望郷や思郷にも、どちらかのカタカナ文字がついて、いいのではないかと、思った。ふと、心中に浮かんだわが造語、「追郷」は、もとより見出し語にはなかった。浅学非才の私の場合、浮かんだのはこれくらいにすぎないけれど、まだまだ無限にある。浮かんだ言葉だけでも使い分けるのは、私にはきわめて困難である。きょうの書き殴り文章の真意は、ずばり文章の難しさである。夜明けは、雨模様である。梅雨の天候は、ぐずついている。私は文章が手に負えなく、グズグズさ迷っている。