樹木の年輪、人体の皺

樹木は、確かな年輪を刻んで生長する。これに関して、自問自答を試みる。人間は、身体あるいは精神のどこかに、年輪を刻んで成長するのであろうか。もとより、バカな問いかけなのであろう。私には、答えが見つかるはずもない。ところが、年輪とは似ても似つかないけれど、ふと一つだけことばが浮かんだ。それは、「年の功」ということばである。知りすぎていて、いまさら電子辞書にすがるまでもないことばである。しかし、電子辞書を開くのは、生涯学習を掲げるわが習わしである。手元にある電子辞書を開いて、それを見出し語にした。「年の功:年をとり経験を多くつむこと。また、その経験の力。亀の甲より年の功。同じ意味の繰り返しになるけれどついでに、亀の甲より年の功を見出し語にした。長年かけて積んできた経験は貴く、価値があるということ。」年をとれば、人体の額には皺が刻まれる。ところがこれは、成長の証しと、言えるであろうか。いやいやこれは、確かな老化あるいは老耄(老耄)、すなわち確たる老い耄(ぼ)れの証しの一つに数えられている。結局、人体にあっては成長の証しと思える、年輪の刻みを見ることはできそうにない。挙句、目では見ることのできない精神的なものでお茶を濁して、年輪の刻みに置き換えているのであろう。すると、ふと浮かんだ「年の功」だけれど、まんざら間違いではなそうと、私は独り善がりにほくそ笑んでいる。このところの数日、私はくだらない文章を長々と書いてきた。ところが懲りずに、きょう(六月二十三日・木曜日)また悪乗りでもしたかのように、身も蓋もない文章を書いている。もとより、くだらない文章を書き続けるより、休んだほうがましだとは心得ている。それでもそれには、身勝手にこんな内幕がある。すなわち、虫けら(私)に宿る「一寸の虫にも五分の魂」という、わずかな志である。すなわち、私はリニューアルされた掲示板が定着するまでは、恥をさらしてでも休まず、何かしらを書こうと決め込んでいたのである。言うなれば、虫けらの束の間の気張りである。幸いなるかな! 掲示板は、ご常連様たちのご好意をさずかり、よどみなく継続にあずかっている。そうであれば、虫けらの一寸の志(大沢さまへのお返し)も、いくらか果たせたことにはなる。ほっと、胸を撫でおろすところはある。しかし、きょうの文章のようなわが柄でもないことを書いていると、くたびれだけを儲けて、私は疲れ果てている。そろそろ、休みたい。夜明けて、梅雨の雨がしとしと降っている。いくらか、大空が明るみだしている。梅雨はぐずついている。私はさ迷っている。きのうの文章とまったく同様の結文である。わが額には無数の皺が刻まれている。もちろん、成長の証しの年輪ではない。