再びの送稿テスト

六月十九日(日曜日)、きょうもまた私は、再びの送稿テストを試みている。そのため、くたびれもうけを避けるため、おのずから長い文章は、自制を決め込んでいる。ただし、夢遊病者の如くにヨレヨレの書き殴りのため、この決意の決着は私自身、まったく不明である。もとより、不特定多数の読者が存在するブログにあって、文章を書くのは、ほとほと困難事である。それでも幸いなるかな! 読者は、わが味方と思える人たちに限られている。それに素人ゆえと甘えて、多大の情けを賜り、私は書き続けてきた。確かに、独り善がりの身勝手である。しかしながら身勝手に、そうでも思わないと、文章は書けない。世の中には二つの事柄を並べて、相乗効果という言葉が存在する。ところが私の場合は、脳髄の凡愚と手先不器用を並べると、ずばり相乗減殺(そうじょうげんさい)である。電子辞書を開いても、こんな言葉は存在しない。自分自身だけに通用する、咄嗟のわが造語である。さて、きのうのわが送稿テストの文章にあっては思い及ばず、大沢さまから感涙したたるご丁寧なコメントを戴いた。丁寧には丁寧なお返しこそ、人間たる証しである。私は心して読んだ。ご投稿文の中で大沢さまは、このたびの現代文藝社のホームページのリニューアルにたいしは、ご自身の楽しみのためと、縷々(るる)書かれていた。ところが私は、この表現には真っ向からあらがった。なぜなら私は、読者のためと掲示板の存在意義の継続にたいする、大沢さまの苦悩ぶりをみたからである。私の場合は『ひぐらしの記』を掲示板上で、無料掲載にあずかっている。だから余計、これまた身勝手に私は、大沢さまの苦悩ぶりをありがたく、そして崇めずにはおれなかったのである。それゆえに私は、大沢さまの志にたいし、ありきたりだけれどこの上ない感謝と感激をおぼえていた。再びの心許ない送稿テストゆえに、ここで書き止めにしたいところではある。しかし、起き立てのわが心中に浮かんでいたことを付け足したい気もある。すなわちそれは、「人間、いやおまえは、食べるために生きるのか!」。それとも「生きるために、食べるのか!」と、自問を試みる。生涯にわたり、結論にはありつけない、どっちつかずの永遠のテーマである。ところが私にかぎり答えはかなり後者、「生きるために食べるのだ!」に傾いている。いや命あるもののすべてが、生きるために食べていると言えそうである。「食べるために生きるのか」。そんな、遠回しの一見、きれいごとと思える表現はやめにしたいところである。つまり、庭先にばら撒く白米をせっせと拾い続けて、食べ急ぐコジュケイから学んでいる教訓である。命あるもの、一概には食糧、あるいは食料、身近なことでは食べ物に執着するのは、文字どおり食べることこそ命の糧(かて)になるからであろう。付け足し文にしては、漫(そぞ)ろ長くなってしまった。書き殴りの弊(へい)、とことんかたじけないところである。確かに、再びの送稿テストに躓(つまず)けば、恥はかかずに済む。「雉も鳴かずば撃たれまい」。だからと言って無論、願ったり叶ったりではなく、私は再びの送稿テストの成功を祈っている。実のない書き殴りとはいえくたくたの、くたびれもうけだけでは嫌になるからである。梅雨の合間とは言えない、夜明けの朝日が輝いている。