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坂本弘司撮影

御礼

2月13日(木曜日)、5:29。すっかり寒気が遠のいて、早やてまわしに春が来ている。しかし、気象予報士の予報によれば、来週はまた寒くなると言う。だけど、季節の足取りは迷うことなく三寒四温を繰り返し、確かな春へ近づいている。このことを鑑みればきょうの春は、いまだヨチヨチ歩きの足取りなのかもしれない。私は寝起きにあって心中に浮かんでいたことを何ら飾ることなく、ネタにして文章を書き始めている。人間(命)だれしも、いや私の場合は、個人の能力や努力だけで生きることは、蚊の鳴くほどにも満たない微々たるものである。人(私)が生きるためには個人生活および社会生活共に、人様の助力と知恵そして激励があってこそ、ようやく生存が叶えられるものである。大袈裟好きの私は、わが柄でもないことを書いたけれど、常々いだくわが人生訓である。ところがこの人生訓は、きのうの「ひぐらしの記」の執筆において、如実に確かな証しとしてすっぽり日の目を見たのである。きのうの私は、二つのつらい事情を引きずり、様にならない嘆きのメソメソ文を書いた。挙句、文尾には「やはり、休むべきだったのかもしれない」と、書く始末だった。ところが、「拾う神あり」。すなわち、大沢さまから思いがけなくご投稿文(メッセージ)を賜り、わが「塵芥」(ゴミ)の文章は、たちまち「華」を成したのである。このことでわが憂鬱気分は一変し、私はきのう一日じゅうを快楽気分で終えることができたのである。このことに御礼を伝えたくて起き立ての私は、いつもとは異なり心中には文字どおり、ウズウズと渦が巻いていた。大沢さまの脳髄からスラスラと溢れ出る『徒然草』(吉田兼好)の一遍もまた心地良く、私はまるで桃源郷に住む気分に浸っていた。確かに、人間(命)、いやわが命は、人様の助力、知恵、そして激励により生かされている。現在の私は、こんな大事なことがわが文章力では書けない辛さ、惨めさを味わっている。夜明けはどんよりとした曇り空である(6:29)。

これで十分です。

 ひぐらしの記は、役目を果たしています。「つれづれなるままに、ひくらし、すずりにむかいて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」と吉田兼好は「徒然草」で言っていますが、「あやしうこそものぐるほしけれ」の部分がよくわかりませんが、「狂気じみた様・正気が失われた様、そのような気分・感じ。気が変になりそうな感じ。」と解釈されています。物書きもこの境地にまで達すれば、本物でしょうね。

薄れゆく「生き甲斐」

2月12日(水曜日)。「建国記念日」明けで、ほぼいつもの起き出し時刻にある(5:39)。しかし気分が萎えていて、文章が書けません。きのうは予定の行動に則り、妻同行で「眼鏡市場」(神奈川県横須賀市内)へ出向きました。私の用件の二つのうち、補聴器の定期ケアは無事に済みました。ところが、もう一つの用件のメガネの買い替えは、「メガネでは矯正できません」と言われて、眼医者行を勧められ、お陀仏となりました。一方、妻の用件のメガネの買い替えは、スムースに事が進んで妻は、新たなメガネを購入しました。先ほどの起き出しにあって、スマホを駆動させると思うようにいかず、心が萎えました。これらのことがあって気分喪失を被り、きょうはこの先が書けません。人間はただ生きているだけで、生き甲斐が無ければ、もはや「生きる屍(しかばね)」です。現在の私は、そんな状態です。先日、私は3月10日に「鎌倉芸術館」で上映される映画、『90歳、何がめでたい!』(作家佐藤愛子原作、草笛光子主演)のチケットを2枚(妻の分と合わせて)、買いました。まだ先は長いけれど、似たような心境の映画を観て、気分の賦活剤になることを願っています。きょうの文章は、休みを逃れるだけの文章です。甚(いた)く、かたじけなく思っています。いまだ外気は暗闇で、夜明け模様を知ることはできません。やはり、休むべきだったのかもしれません。

翳りゆく過去

たぶん、地球は壊れず永久、すなわち未来永劫にわたり存在する。そして、「時」は必ずめぐり続ける。人の命は、生涯という限りの「時」を過ぎれば必ず絶え尽きる。こんなことを心中にめぐらして、起き出している(5:47)。きょうの地球は日本社会に、令和7年(2025年)の「建国記念日」と、印している。今さらに、遠い過去を振り返る。建国記念日の施行は、昭和42年(1967年)2月11日である。このとき、日本の国のあちこちには、様々な祝典行事が催された。おのずからこの日は、国民祝祭日となった。翌年、昭和43年(1968年)2月11日(2度目の建国記念日)にあって、新郎・私(27歳)と新婦・妻(24歳)は、晴れて華燭の典を挙げた。こちらは祝典と言うには悍(おぞ)ましく、挙式の場所は今なお東京都市ヶ谷に存在する「アルカディア市ヶ谷」(当時は私学会館)だった。以降、めぐりめぐってきょうは、老いさらばえた二人の、何度目かの「結婚記念日」にある。度数を数えるのも物憂げで、数えることはしない。ところがきょうの二人の行動は、老いの身の証しを表して、しかたなく仲睦まじく一致している。私の場合は、補聴器の定期のケアと、メガネの買い替え行動である。一方、妻の場合は、メガネの買い替えである。共に、高額の散財が予想されている。訪れる店舗は、わが家からはるかに遠い「眼鏡市場」(神奈川県横須賀市内に存在する)である。なぜ、どうしてここになったかと言えば、横須賀市内に住む娘が、私に補聴器をつけさせるため強引にこの店に連れ出したからである。このときの私は、娘が仕掛けた罠に落ちたのである。しかし、これ以降の私は、補聴器に満足し快楽の日常生活にありつている。補聴器(45万円)を買ってくれることはなかったから、似非(えせ)の親孝行を仕掛けられたのであろう。娘の誕生祝いは、翌年(昭和44年・1969年)の1月30日だった。こんな私的なことは、この先を書くには耐えられない。だから、ここで書き止めである。現在の祝典が欲しいけれどそれは無く、翳(かげ)りゆく過去の物語である。夜明けの空は、遠出には好日和である。

それは良い考え

 では早速、お昼のサラダに一葉を試食してみます。

♪大沢先生へメッセージです♪

小松菜は、生で食べても問題ないそうなので、一葉だけ召し上がってみては、いかがでしょうか?

どうしようかな

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 先日、スーパーで購入した小松菜の葉の部分を切って茎の部分を水栽培からプランターに植え替えて、十四日ほどたった。購入したときの半分ほどの背丈に育っている。味見をしたいのだけれど、迷っている。ほかにも植えているが、葉っぱはしっかり出ているけれどなかなか伸びてこない。どうしようかな。まだまだ迷いそうである。

早とちりかな? 「春が来た」

2月10日(月曜日)。文章を書くには程よい時刻の起き出しにある(5:18)。だから、執筆時間に切迫することなく、のんびりとキーを叩き始めている。さらには、寝起きに怯えていた寒気は緩んでいる。いまだ朝日の見えない夜明け前だけれど、確かな足取りで夜明けは早くなり始めている。長く続いていた雪国地方の大雪も、ようやくきのうあたりから細り始めている。確かに、春は近くに来ている。先導役を担ってわが庭中には、フキノトウが萌え出している。一本の梅の木には蕾が膨らみ、まもなく綻びそうにある。ふるさとの原っぱや土手には、スギナやツクシンボ、ノビルなどが芽生え始めていよう。自然界はこうして冬衣(ふゆごろも)を捨て去り、だんだんと春の装いに彩られ深めてゆく。私同様ネタに飢えるメディアは、早々と桜の開花予報に現(うつつ)を抜かし始めている。何がなんでも、早とちりではないだろうか? と、私は要らぬ気を揉むところである。人間社会は、自然界と人間界の営みの中でめぐっている。自然界の大雪の後には春爛漫を願いたいけれど、地震をはじめ天変地異の鳴動は、一寸先は闇の中にある。一方、人間界は一寸先どころか、時々刻々に現れる災難に怯えている。人間界には自然界のように、春の訪れを明確に楽しむ兆しは何もない。目下の人間社会は、あらゆる学び舎における、入試の真っ只中にある。結果は合否に分かれて、笑う春もあれば泣く春もある。石破総理は、アメリカ・トランプ大統領との会談を無事に終えて、ホッと胸を撫でおろされている。しかし、この先が万事、好都合にめぐるとは言えない。なぜなら人間界には、自然界とは異なり「かけひき」という人為の曲者(くせもの)が存在する。すなわち、「ばかしあい」なら、善良な石破総理は、狡猾(こうかつ)なトランプ大統領に敗けそうである。こんなことを書いているうちに、夜明けが訪れている。もはや、彼方の雪国の空を気を懸けることはしなくて済みそうである。それでも、ちょっぴり気に懸かるのは、雪崩と雪解け水のしわざである。

前田様、ありがとうございます。

最近は、酒を呑まず、ノンアルコール飲料を嗜む人が増えていると聞きます。
ノンアルコール飲料のみを提供する店も、ちらほら出てきているそうです。
私はどちらも呑みます。
その他、食、映画、ちょっとした旅など、好きなこと、面白いと思うことを書くことに挑戦してみたいです。

嗜む、嗜好

2月9日(日曜日)。自ら決めている、起き出し時刻の定時(5時)ははるかに過ぎて、大慌てで起き出している(6:29)。だから、心が急いている。しかしながらきょうの場合は、自業自得と言って私自身に、恨みつらみを言うつもりを無い。いやそれどころか、自分自身を褒めてやりたい気分が横溢している。まったく久しぶりに二度寝にありついて、さらには熟睡に恵まれたからである。熟睡がこんなにも心地良いとは、これまたまったく久しぶりの実感である。老齢のわが身は、ただ眠ることさえにも困難を極めている。こんなことではいち早く、永遠の眠りも悪くないなあーと思う、このところの眠りの浅さだった。熟睡に恵まれたのはたぶん、きのう、卓球クラブの練習へ出向いご褒美であろう。きょうはこのことだけを書いて、結び文にしても構わないほどに現在の私は、熟睡がもたらした快感に酔っている。しかしながらそれだけでは、やはり味気ないところもある。きのうは「酒」をテーマーにして、淡々と書かれた「味のある」文章に遭遇した。ゆえに私には、羨ましさとありがたさのダブルの気分が噴出した。いつものわが嘆き文を省みて、ブログにはこんな文章を書きたいと思ったからである。掲示板上における書き手(投稿)は、たまご様だった。同時に私は、酒にまつわる、嗜(たしな)むという、ことばの臨場感を賜った。私の場合、「嗜む」とその熟語を為す「嗜好」(しこう)共に、もとより死語として無縁を続けている。私はチョコレートを筆頭にして駄菓子あれこれ、無類の甘党である。甘党には、嗜むや嗜好ということばは様にならない。ただ、ダボハゼのごとく「甘い餌」として食いつくだけにすぎない。嗜好を鑑みれば、わが人生においてはたったの一度さえ喫煙の体験はない。さらに飲用にあっては水道水さえあれば、酒(ビールなどのアルコール類)などまったく無くても構わない。いや、医療用のアルコール類だけは除くべきであろう。なぜなら、今なおわが家の土間の下駄箱の上には、新型コロナ騒動以降、市販の消毒剤が鎮座している。ビールはわがファンとする阪神タイガースが、宿敵読売ジャイアンツに勝ったおりだけは飲むように、買い置きしていたことがある。ところが、それも一時の戯れにすぎず、舌が嫌って現在は、パタリと沙汰止みになっている。しかし、正月くらいはビールを飲みたいなあーと要らぬ欲望が湧いて、昨年の年の瀬の正月食品の買い漁りのおり、ノンアルコールならぬ、正真正銘の酒(ビール)を3個買った。ところが、未だに一個だけ残っていた。ゆえに、この文章を書いているのに合わせて急いで階下へ下り持って来た。そして、手に持つアルミ缶のラベルを丹念に眺めている。ラベルの表示はこうである。アルミ缶の全体サイズは超小型、手にしている片手・手の平の半分を覆う程度である。英字表示だけれどカタカナで書けば、スーパードライ、アサヒとある。漢字では生、酒とある。アルミ缶を回しながら容量を調べてみると、これかな? アルミ缶の最下部にごく小さく、純アルコール量:54g(135㎖当り)とある。すると、手にしているアルミ缶は、135㎖入りの生ビールであろうか? 酒を嗜好しない私は、こんな表示にさえしどろもどろである。きょうの文章は、アホの私の究極の書き殴りである。ただ一つの真意は、たまご様の絶妙の文章に憧れているところである。大慌てで書いたけれど書き殴りに救われて、未だ7;26である。もっと、丁寧に書くべきだったかなと、寝起きの好気分は曇りがちになっている。ただ、夜明けの大空は、わが気分にお構いなく、かぎりなく青い日本晴れである。大雪情報が細り、日本列島には一足飛びに春が来たのかもしれない。