嗜む、嗜好

2月9日(日曜日)。自ら決めている、起き出し時刻の定時(5時)ははるかに過ぎて、大慌てで起き出している(6:29)。だから、心が急いている。しかしながらきょうの場合は、自業自得と言って私自身に、恨みつらみを言うつもりを無い。いやそれどころか、自分自身を褒めてやりたい気分が横溢している。まったく久しぶりに二度寝にありついて、さらには熟睡に恵まれたからである。熟睡がこんなにも心地良いとは、これまたまったく久しぶりの実感である。老齢のわが身は、ただ眠ることさえにも困難を極めている。こんなことではいち早く、永遠の眠りも悪くないなあーと思う、このところの眠りの浅さだった。熟睡に恵まれたのはたぶん、きのう、卓球クラブの練習へ出向いご褒美であろう。きょうはこのことだけを書いて、結び文にしても構わないほどに現在の私は、熟睡がもたらした快感に酔っている。しかしながらそれだけでは、やはり味気ないところもある。きのうは「酒」をテーマーにして、淡々と書かれた「味のある」文章に遭遇した。ゆえに私には、羨ましさとありがたさのダブルの気分が噴出した。いつものわが嘆き文を省みて、ブログにはこんな文章を書きたいと思ったからである。掲示板上における書き手(投稿)は、たまご様だった。同時に私は、酒にまつわる、嗜(たしな)むという、ことばの臨場感を賜った。私の場合、「嗜む」とその熟語を為す「嗜好」(しこう)共に、もとより死語として無縁を続けている。私はチョコレートを筆頭にして駄菓子あれこれ、無類の甘党である。甘党には、嗜むや嗜好ということばは様にならない。ただ、ダボハゼのごとく「甘い餌」として食いつくだけにすぎない。嗜好を鑑みれば、わが人生においてはたったの一度さえ喫煙の体験はない。さらに飲用にあっては水道水さえあれば、酒(ビールなどのアルコール類)などまったく無くても構わない。いや、医療用のアルコール類だけは除くべきであろう。なぜなら、今なおわが家の土間の下駄箱の上には、新型コロナ騒動以降、市販の消毒剤が鎮座している。ビールはわがファンとする阪神タイガースが、宿敵読売ジャイアンツに勝ったおりだけは飲むように、買い置きしていたことがある。ところが、それも一時の戯れにすぎず、舌が嫌って現在は、パタリと沙汰止みになっている。しかし、正月くらいはビールを飲みたいなあーと要らぬ欲望が湧いて、昨年の年の瀬の正月食品の買い漁りのおり、ノンアルコールならぬ、正真正銘の酒(ビール)を3個買った。ところが、未だに一個だけ残っていた。ゆえに、この文章を書いているのに合わせて急いで階下へ下り持って来た。そして、手に持つアルミ缶のラベルを丹念に眺めている。ラベルの表示はこうである。アルミ缶の全体サイズは超小型、手にしている片手・手の平の半分を覆う程度である。英字表示だけれどカタカナで書けば、スーパードライ、アサヒとある。漢字では生、酒とある。アルミ缶を回しながら容量を調べてみると、これかな? アルミ缶の最下部にごく小さく、純アルコール量:54g(135㎖当り)とある。すると、手にしているアルミ缶は、135㎖入りの生ビールであろうか? 酒を嗜好しない私は、こんな表示にさえしどろもどろである。きょうの文章は、アホの私の究極の書き殴りである。ただ一つの真意は、たまご様の絶妙の文章に憧れているところである。大慌てで書いたけれど書き殴りに救われて、未だ7;26である。もっと、丁寧に書くべきだったかなと、寝起きの好気分は曇りがちになっている。ただ、夜明けの大空は、わが気分にお構いなく、かぎりなく青い日本晴れである。大雪情報が細り、日本列島には一足飛びに春が来たのかもしれない。