早とちりかな? 「春が来た」

2月10日(月曜日)。文章を書くには程よい時刻の起き出しにある(5:18)。だから、執筆時間に切迫することなく、のんびりとキーを叩き始めている。さらには、寝起きに怯えていた寒気は緩んでいる。いまだ朝日の見えない夜明け前だけれど、確かな足取りで夜明けは早くなり始めている。長く続いていた雪国地方の大雪も、ようやくきのうあたりから細り始めている。確かに、春は近くに来ている。先導役を担ってわが庭中には、フキノトウが萌え出している。一本の梅の木には蕾が膨らみ、まもなく綻びそうにある。ふるさとの原っぱや土手には、スギナやツクシンボ、ノビルなどが芽生え始めていよう。自然界はこうして冬衣(ふゆごろも)を捨て去り、だんだんと春の装いに彩られ深めてゆく。私同様ネタに飢えるメディアは、早々と桜の開花予報に現(うつつ)を抜かし始めている。何がなんでも、早とちりではないだろうか? と、私は要らぬ気を揉むところである。人間社会は、自然界と人間界の営みの中でめぐっている。自然界の大雪の後には春爛漫を願いたいけれど、地震をはじめ天変地異の鳴動は、一寸先は闇の中にある。一方、人間界は一寸先どころか、時々刻々に現れる災難に怯えている。人間界には自然界のように、春の訪れを明確に楽しむ兆しは何もない。目下の人間社会は、あらゆる学び舎における、入試の真っ只中にある。結果は合否に分かれて、笑う春もあれば泣く春もある。石破総理は、アメリカ・トランプ大統領との会談を無事に終えて、ホッと胸を撫でおろされている。しかし、この先が万事、好都合にめぐるとは言えない。なぜなら人間界には、自然界とは異なり「かけひき」という人為の曲者(くせもの)が存在する。すなわち、「ばかしあい」なら、善良な石破総理は、狡猾(こうかつ)なトランプ大統領に敗けそうである。こんなことを書いているうちに、夜明けが訪れている。もはや、彼方の雪国の空を気を懸けることはしなくて済みそうである。それでも、ちょっぴり気に懸かるのは、雪崩と雪解け水のしわざである。