
坂本弘司撮影 1月12日(木曜日)、起きてまだ夜明け前にある。もとより、安眠と癒しを貪るはずの寝床は、様々な妄想が駆け巡る運動場さながらに化している。人生とは悩み苦しみて、死ぬまで生きることである。82年生きて、わが確かな悟りである。しかしながら実際の苦悩はこの先にあり、それゆえに未体験である。人生の孤独とは究極、ひとりで生まれ、ひとりで死ぬことである。起き立ての私は、気狂いしているわけではなく、確かな性根をたずさえている。しかし、性根はさ迷っている。寒気のせいではない、寒気はいつもより緩んでいる。言うなればお釈迦様の説法の真似事をして、書いてみたくなったにすぎない。もっとあけすけに言えば、ネタ不足を起き立てのダジャレで補ったものである。いや、ダジャレとも言えない、わがこれまでの人生行路から学んだ正鵠(せいこく)である。何たる果報者、いや何の祟りであろうか? わが凡愚・凡庸をはるかに超えて、私は文章を書き続けている。そのせいで、書き疲れている。とりわけこのところは、長い文章を書いている。そのため、疲れがどっと出ている。だからきょうは、休養に逃げ込むつもりだった。ところが、夜明けまでの暇つぶしに、パソコンを起ち上げた。挙句、気狂い症状みたいな文章を書いている。「コケッコー」の早起き鳥はいないけれど、早起きを悔いている。鳥インフルエンザウイルスにちなむ「鶏り殺つ」のニュースは、つらさ堪えないものがある。尻切れトンボだが恥じず、意図して短い文で閉じるものである。暇をつぶして、夜明けが近づいている。 1月11日(水曜日)。まったく火の気のないパソコン部屋の椅子に座して、現在、デジタル時刻は3:58と刻まれている。寒さで、体が震えている。だけど、寝床が恋しいとは言えない。なぜなら、わが意志で抜け出して来たからである。冬季にあって、目覚めて起き出したままに寒さに震えている私は、とことんなさけない愚か者である。寒い季節であっても昼間のパソコン部屋には、燦燦と太陽光線が暖気をそそいでいる。昼間の太陽光線を味方につければ、もちろんこんな泣き言・恨み言など書かずに済む。ところが、なんどか昼間に文章書きを試行したけれど二日と続かず、元の木阿弥すなわち元の鞘(未明)に収まり返っている。気象庁によれば一日・二十四時間の中では、気温は未明が最も低いという。繰り返せば、ほとほと私は、バカ者・間抜け者である。せっかくの昼間の太陽光線の恵みを放擲(ほうてき)するようでは、もとよりこんな泣き言など吐いてはならないはずである。しかし、泣き言を言っている。生来、私は弱虫・泣き虫である。机上のカレンダーへ目を遣ると、きょうには二つの歳時(記)が記されている。一つは「蔵開き」、一つは「鏡開き」である。いずれも、知りすぎている歳時(記)だけれど、生涯学習の復習を兼ねて電子辞書を開いた。【蔵開き】:「新年に吉日を選び、その年初めて蔵を開くこと。多くは1月11日とし、福神に供えた鏡餅で雑煮を作ったりする。【鏡開き】:「①正月11日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事。近世、武家で、正月に男は具足餅を、女は鏡台に供えた餅を正月20日(のち11日)に割って食べたのに始まる。鏡割り。②祝い事に酒樽の蓋を開くこと。鏡抜き」。辛党すなわち辛味(アルコール類)はさっぱりで、甘党すなわち甘味(駄菓子類)一辺倒の私は、甘酒さえ用無しにきょうは、ふるさと便の丸餅を用いて、好物の「汁粉(善哉餅)」を鱈腹食べるつもりでいる。オマケには無病息災を願うつもりだけれど、ところが意に反し、胃部不快感をいや増す恐れもある。しかしながら、きょうだけは「そんなこと、知ったこっちゃない!」、餓鬼(食いの)楽しみである。雑煮餅は、「小正月」(15日)の愉しみである。そのため次の買い物にあっては、市販の胃薬を買い置きしなければならない。目当ての薬は、私に生活資金を存分に与えてくれた「エーザイ」の整胃薬「セルベール」である。体全体が冷えてきて、この先は書けない。デジタル時刻は、未だ暗闇の4:55である。なさけない。 冬季の我が命は、確かに太陽光線に救われている。 1月10日(火曜日)。元旦、三が日、七草、ほか「初」という冠を付けた歳時(記)は、日ごとに過ぎている。加えて、きのうの「成人の日」(9日・月曜日、休祭日)へ連なる三連休も過ぎた。現在は、起き立ての夜明け前にある。きょうあたりから実質、働く人も、学び舎で学ぶ人も、新年の本格稼働に勤しむことになるであろう。これらの人の例外に属する人は、自営業を生業にする人、世のため、人のため、そして自分のために社会貢献や公務に就く人たちであろう。さらにはこれらの人たちを超えて、休むことなく勉学のフル回転を強いられているのは、様々なレベルの受験生である。職業を持たない私の場合は、もはや働くという言葉自体が死語に近いところにある。実際には死語とは言いたくないから、縁遠いと換言するところである。なぜなら、わが日常生活に負荷されている仕事、すなわち妻を支える主婦業、分別ごみ出し、当住宅地の周回道路をなすわが家周りの掃除はすでにしている。さて、「ひぐらしの記」は、旧年の年の瀬および暮れから明けてきょうまで、休むことなく書き続けている。ところが、世の中の人たちが本格稼働に就くきょうは、書くことに疲れていて、休みたい思いで起き出している。確かに、休むことなく書き続けてきた。しかし、文章書きは仕事ではないので、書き続けたことを自惚れることはできない。換言すれば、仕事を持たない老人の行き場のない暇つぶしにすぎない。ところが、この間において秘かにちょっぴり自惚れているのは、心して愚痴こぼしの文章を遠ざけ得たことである。しかしこれも、もはや消費期限が切れて、きょうあたりからぶり返している。私の場合は、もとより愚痴こぼしの文章を避ければ、たちまち頓挫の憂き目を見る。言うなれば様々な愚痴こぼしは、わが文章立ての骨格を成すものである。それでも愚痴まみれの文章は、自分自身はもとより厚意にさずかるご常連の人たちの気分をも損ねることとなる。自分自身の気分を損ねるのは、自業自得ゆえに仕方がない。しかしながら、親愛なるご常連の人たちの気分を損ねるのは、わが大きな罪作りである。対面なく文章で詫びて済むものではないけれど、衷心より謝意を示すものである。「謝意」とは、きわめて都合の良い言葉である。知りすぎている言葉だけれど、習性にしたがって電子辞書を開いた。【謝意】①感謝の気持ち②謝罪の心。お詫びの気持ち。すなわち私は、心してご常連の人たちに対し、謝意をいだいている。とりわけ現在の謝意には意図して、罪償いと罪滅ぼしのわが意を託している。いやこの先も、厚意にさずかるご常連の人たちに対しは、一寸たりとも謝意を忘却することはない。このことは自戒というより信念である。世の中の人たちの本格稼働開始にあたり、私はこのことをわが胸に銘じて、愚痴こぼし文章の許しを得たい思いである。書き疲れている私は、身勝手にこのことを記して、指先の動きを畳むものである。やはり最後は、愚痴こぼしで閉めることになる。幸いなるかな! 胃カメラは腫瘍や芥子粒ほどの傷も探しきれなかった。けれど、旧年からの胃部不快感はなお続いている。庭中へ飛んで来る山のメジロを真似て、薬剤代わりに椿の花びらの甘い蜜を舐めたら、案外治るかもしれない。子どもの頃のわが母は、嗜好というより薬剤代わりに何かというと、お顔見知りの人が育んだ蜂蜜を舐めさせてくれた。すると、ケロッとではないけれど、なんだか効いていた。書き殴りの駄文とはいえ、私には手に負えないものである。だから、おしまい。夜明けまでの制限時間内に収まった、謝意文である。 キラキラの陽光=太陽光線に当たっていると、暖かくて気分上々になりますね◎◎ 成人の日、太陽光線の恵みに遭って、生まれてきて良かったと、思いたい❗ きょうは「成人の日」(1月9日・月曜日、休祭日)。遠い日の思い出というより、空(から)ごとの夢まぼろしになりかけている。確かに、私のみならず人は、華ある成人(式)を迎えても、年月を過ぎれば必定、老い耄れの姿をさらけ出す。このことは人間のみならず、生きとし生きるものの宿命(定め)である。だから、新たな成人(式)を寿(ことほ)ぐことすれ、むやみにやっかむことなく、いくらかのやせ我慢でことたりる。そうは言ったものの正直なところ私は、かなりやっかんでいる。これは82年生きても、年の功を重ねることなく過ぎた、わが虚しさの証しなのかもしれない。顧みてやはり若さは、それだけで人生行路における、無償で得られる宝物である。しかしながら、その宝物を無駄にすると、年月過ぎてしっぺ返しをこうむり、人生の晩年においては後悔まみれとなる。このことはわが身を省みて諭(さと)す、切ない老婆心である。老婆心はあえて、老爺心に置き換えることのない、「婆・爺」の共通語である。さて、何度も繰り返し書いているけれど、随筆集と銘打っている「ひぐらしの記」は、すっかり私日記スタイルに成り下がっている。その証しにはしっかりと態勢をととのえて書くことなく、私は起き立ての心象(風景)のままに書いている。いや実際には、起き立てにふと心中に浮かんでいることをネタに書いている。挙句、書き殴りや、ときには走り書きを強いられている。このことは、後悔というより反省である。ところがいくら反省を重ねても、いまだいっこうに正すことができずじまいである。六十(歳)の手習いにすぎない私は、もとより文章というよりいたずら書きの作文にさえ手を焼いている。こんな嘆きを起き立てにこうむるのだからわが一日の始動は、おのずから泣きべそまじりとなる。そのうえ、文脈の乱れや誤字脱字など、すなわち失策をしでかせば一日じゅう暗い気持ちになる。そのたびに、「ひぐらしの記」の継続の可否や是非に決断を迫られて、わが心は大揺れとなる。私にはもう「成人(式)の日」は来ない。そうであるなら、「老人や老齢の日」をどう費やすか? と、私は日々苦心や迷い言を重ねている。文章に手古摺るのは、もちろん序の口であり、生きるための難題はほかに箆棒(べらぼう)にある。時節柄、起き立ての寒さが身に沁みる。老齢の身を生きる苦しさは、ずいとわが身に沁み込んでいる。 《マイナンバーカードオンライン申請》 オンライン申請のやり方ですが、申請書のオンライン申請用QRコードを読み取って(QRコード読み取りアプリがあります!!)、そこから入力画面に入るだけです。 私は茶の間のソファに背凭れていた。恐れていた降雪予報は外れた。まるで、予報の外れを償い詫びるかのように、早春の陽光が窓ガラスを通し見ている視界へ、限りなくキラキラふりそそぐ。もちろん、自然界が詫びることはない。予報を外したことで詫びるとしたら、気象庁とか気象予報士の名を着る人間である。しかしながらこれらの人とて、番外編の好天、煌めく陽光にありつけて、詫びることはない。山から緑(あお)く艶々に光る初々しい姿のメジロが番(つがい)で、庭中のツバキの花びらへ飛んで来た。心許なく小枝や葉っぱを揺らし、飛び飛びに仲良く分け合って、仰向けに蜜を吸い始めた。いつも先導するシジュウカラは見えない。私は、たまゆらの幸福に酔い痺れていた。人生の晩年を生きるわが身は、やがて斃(たお)れる。きのう(1月7日・土曜日)の昼間の寸描と、そのおりのわが心象風景である。きょう(1月8日・日曜日)の私は、わざといつもとは違う書き出しをした。それは起き立てのわが心中に、「玉響(たまゆら)」という、言葉が浮かんでいたせいである。普段はあまり用いないけれど、文字どおり心に響きの良い言葉である。すると、語彙の生涯学習を掲げる私は、学童の頃の「綴り方教室」に倣って、「たまゆら」を用いて、一文を綴ってみたくなったのである。言うなれば生涯学習にちなむ、言葉の復習(おさらい)である。私は「たまゆら」を見出し語にして、手元の電子辞書を開いた。【玉響(たまゆら)】①(万葉集の「玉響(たまかぎる)」を玉が触れ合ってかすかに音を立てる意としてタマユラニと訓じた)ほんのしばらくの間。一瞬。一説に、かすか。方丈記「いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」。「たまゆらの命」。②草などに露の置くさま。きのうの私は、妻が予約済の髪カットへ、大船(鎌倉市)の街中にある美容院、いや小汚いビル内の一室へ引率同行をした。降雪予報の外れに変わる、思いがけない早春の陽光は、ふたりには万々歳だった。忝(かたじけな)い一文をしたためて、夜明けを待つことになる。きのうの陽光が温めたパソコン部屋は、暖を引きずりこころもち寒気が緩んでいる。自然界も、気象プロの人間も、予報の外れを詫びることはない。私にはありがたさの極みにある。 古閑さん、御投稿どうもありがとうございます。
人生、気狂いの雑感
「鏡開き」
実感
「謝意」文
◎前田さんへメッセージです◎
太陽光線の恩恵
成人の日
♪HIROKIのタレント日記!!
1/5(木)にマイナンバーカードのオンライン申請をしました!!
予め顔写真をスマホで撮影して、保存していたので、5分位で簡単に申請できました。
ただ申請画面で、髙橋の髙「はしごたか」がNGで(※ぼくは戸籍上のたかはしのたかは、髙「はしごたか」なのですが、普段は高「くちたか」を使用しています)、高「くちたか」に変更したので、名前の部分のやり直しがなかったら、3分でできたと思います。
マイナンバーカードが出来上がったら、名前ははしごたかの髙で、明記されていると思うのですが……
入力は、住所等は必要無しで、名前・連絡用のメールアドレス・生年月日のみで、後は顔写真をアップロードするだけだったと思います。
顔写真は、自撮りすると影ができてしまうことが多いと思います!! これだとNGとなってしまうので、街中至る所にある証明写真用の機械がありますが、ぼくは、中に入って座って、機械は使用せずに、自分のスマホで自撮りしたところ、ハッピー!! 影はできませんでした!! この方法はおすすめです!!
それから、マイナポイント第2弾の付与がありますが、それはマイナンバーカードを取得してからの話なので、まずは申請からですね。たまゆらの幸福
♪古閑さんへメッセージです!!
はい、母方祖母より受け継いでいます(笑)。
応援ありがとうございます。
古閑さんのこれからの庭の花々の御投稿を楽しみにしています◎◎