実りの秋、真打「新米、ふるさと便」

十月二十二日(土曜日)、未だ夜明け前にある。熟語を用いれば、ズバリ「未明」である。寝床に寝そべっていたおりのわが心中は、こんな思いに脅かされていた。それはこうである。つくづく私は、現代社会に適応できないたわけもの(落伍者)である。この思いの発露は、これまでも何度か吐露し、また書いてもきたデジタル社会への不適応、すなわち置いてきぼりである。実際のところは、デジタル社会の便利さへの乗り遅れである。挙句、私は日々鬱陶気分に陥り、落伍者感情がつのるばかりである。このところのテレビニュースでは、紙の健康保険証をデジタルに切り替えるというものがあった。どうなることやらと、あわてふためくばかりである。便利は不便利と裏腹である。その証しはこれまで、何度となく体験し、舐め尽くしてきた。私はそのたびに戸惑い、みずからの無能をさらけ出し、落伍者感情に陥ってきた。現代社会にあっては、「不便のもたらす心の通い合い」は、加速度に価値無しになるばかりである。さて、常にわが文章は愚痴こぼしまみれである。もとより、わが小器とお里の知れるところである。晩秋にあってこのところの二、三日は、ずいぶん後れてきた秋空を取り戻している。それでも、遅すぎた! と、恨みつらみはつのるところがある。挙句、ようやく私は、冠の秋の一つへ漕ぎつけた。それは果物の秋である。実際のところは果物の秋の先駆けで、それを包含する実りの秋を体験していた。それは二度にわたり姪っ子から送られてきた、「柿、ふるさと便」であった。ところが、それは涎を流してすでに食べ尽くし、おととい、きのうと連日、店頭の柿を買い込んできた。この秋の蜜柑は、すでに二度買っている。おととい一度目だった栗は、味を占めこれまたきのう二度目を買ってきた。これらに重ねて、いよいよ実りの秋の真打を成す、ふるさと産「新米、ふるさと便」が甥っ子から送られて来た。わが家は新米にかぎらず米は、甥っ子に面倒掛けてふるさと産を購入している。それにはこんな理由がある。どうせ市販の米を買わずにおれないなら、甥っ子に面倒をかけても、ふるさと産を購入したいという、わが浅ましい魂胆である。理由を付け足せば、食べなれた美味しさに加えて、ふるさと心を失くしたくないという、わが思いからである。甥っ子とて、すでに老身をたずさえている。そのため、打ち止めがちらついている。しかしながら実りの秋にあって、旺盛なふるさと慕情を断つには、かなりの勇気と決断がいる。そのうえに、堪えきれない哀しさが付き纏うところがある。夜明けてみれば、あれあれ! 、どんよりとした曇り空である。秋空もいまだに本調子ではなさそうである。天候の回復に後れを取っていたわが鼻炎症状は、真打の「新米、ふるさと便」の到着で気分を良くし、やっとこさ全快に漕ぎつけている。天候のように逆戻りの恐れは多分にあるものの、わが身を省みず、いっとき自然界のだらしなさ(不甲斐さ)を詰りたい思いである。だけど、「図に乗ってはいけないよ!」と、みずからを戒めている。書き殴りの文章は際限なく続くゆえに、ここで意図し打ち止めである。