掲示板

坂本弘司撮影

四度目のワクチン接種事情

七月二十二日(金曜日)、現在は夜明け前とも言えるし、四時前とも言える。寝床から抜け出してきたばかりである。きのう(七月二十一日・木曜日)は、予定されていた四度目の新型コロナウイルス対応のワクチンを左肩に打った。「良薬は口に苦し」。現在はさしたる違和感はなく、肩を撫でればいくらか痛みをおぼえる程度である。もちろん、苦しむよりはましだけれど、ワクチン効果を勘繰りたくなるところはある。普段は憤懣やるかたない行政の思い及ばぬせっかくの小粋な計らいを利用して往復、私は無料タクシーに乗った。市税の臨時出費は、納税者の負担であるゆえに手放しには喜べない。しかしながら私は、浅ましく喜んだ。これまでの三度の接種会場は、「三菱電機・大船体育館」(鎌倉市)だった。ところが、今回四度目の指定の接種会場は、「鎌倉芸術館」だった。社会奉仕を謳う三菱電機も、長い間の体育館の封鎖には音を上げたのであろう。十分、理解できるところである。体育館の場合は、広いフロア一面ですべての作業がスムースに、とりわけスタッフの手際よく、進められていた。そのため接種終了までは、きわめて短時間で済んでいた。ところが芸術館の場合は、大小二つのホールの使用ではなく、ギャラリーなど催し物のためにあちこち区切られた小部屋と、それらに通ずる廊下の利用だった。そのため接種会場はこれまでとは異なり、様変わり風景を呈していた。言葉を変えれば接種会場は、混雑いや混然一体をなしていた。もちろん接種終了まではこれまでより、一時間半ほど長くかかった。この間、多くのスタッフは混雑整理に大わらわであり、まるで独楽鼠さながらに飛び跳ねて動いていた。私の時間指定は、午後の二時半から三時だった。すると、こんな作業は、午前中から夕方まで続いたのであろう。私は順番待ちの番号札を手にして廊下の椅子に座り、眼前にスタッフの動きを凝視して、感謝頻りだった。一方では混雑きわまりない接種者を目にして、あらためて生きることの大変さを実感していた。目の前をヨタヨタ、ヨロヨロのお年寄りが歩いてゆく。付き添い者(家族あるいは買って出た友人)の押す車椅子が何台も通り抜けていく。私の場合、妻への介添え役は八月にめぐって来る。その接種会場は、かなり遠出の初体験の「鎌倉武道館」である。再び、無料タクシー券におんぶにだっこされることとなる。市税の持ち出しとはいえやはり、行政の小粋な計らいには感謝せずにはおれない。コロナは、とんでもない世の中をもたらしている。ところがそれは、わが命の終焉まで続きそうである。おのずから日々、切なるばかりである。雨風なく静かに夜が明けて、いくらか朝日が昇り始めている。私はしばし心を鎮めて、ようやく訪れた夏の朝を愉しむこととする。なぜなら、階段を下りてテレビをつければ、「感染者数過去最多」という、テレビニュースに辟易するからである。

ワクチン

七月二十一日(木曜日)、新型コロナウイルス対応の四度目のワクチン接種日である。しかしながらワクチン効果は、気休めにもならない程度のもののようでもある。なぜなら、ワクチン接種者の感染報道が絶えない。同時に連日、感染者数のぶり返しが、過去最多の文字をしたがえて報道されている。いよいよわが身にも感染か? と、恐怖はつのるばかりである。おのずからわが気分は、萎えるばかりである。ところが気分の萎えは、もちろんコロナのせいばかりではない。いや、最も厄介なのは抵抗や薬剤投与のしようのない、人生の終末期における様々な生き様のせいである。もちろんこれにはワクチンはなく、きわめて手に負えない難題である。そして、これらから生じる気分の萎えは、もろにわが身を脅かしている。私は大沢さまとご常連の人様のご好意にすがり、長年「ひぐらしの記」を書き続けている。このことにたいしてはひれ伏して、わが感謝の思いを伝えなければ気が済まないものがある。なぜなら私は、ご好意にすがり「文章を書きたい!」という、わが欲望を飽きるほどに叶えている。この僥倖は私自身、驚天動地の心境にある。ところが、このところの気分の萎えは、「ひぐらしの記」の継続を妨げ(阻害)はじめている。それゆえ現在は、継続にたいし思案投げ首の状態にある。挙句は、克己心とのたたかいの渦中にある。ところがわが精神力は、こっぴどく負けそうである。こんなまずい文章を書いているせいであろうか、このところのカウント数値は漸減傾向にある。すると、もはや書く価値(甲斐)はない。二度寝にありつけずに起き出してきたら、きのうの文章の二番煎じを書いている。どうせならばとやけのやんぱち、きのうの文章の結語を重ねると、これである。私には気狂いの自覚症状はない。いや、まったくない。「そうかな?」、人様の思いは知るよしない。こちらのことでは、認知症状の走りがあるのかもしれない。しかし共に、自覚症状はない。確りと自覚するのは、コロナの蔓延と人生終末期の生き様に打ちのめされている気分の萎えである。現在の時刻は、夜更けの二時ごろである。「くわばら、くわばら、…」。これは、わが精神状態が危ないときに唱える念仏である。もちろん今のところは、面白半分の空念仏だけれど、ところが真正の念仏に成ったらと、身の毛がよだつ思いである。できれば、人生の終末期の生き様を正し、萎えの気分を癒す、ワクチン開発を望むところである。もちろんそれは、コロナワクチンとは異なり、効果覿面の「人生終末期ワクチン」である。

ようやく、夏の訪れか?

七月二十日(水曜日)、まもなくどっこさと朝日が現れそうな夜明けである。しかしながら、いまだ本来の夏の朝とは言えそうにない。「弘法も筆の誤り」。大空模様を寝ずに寸刻も空けず観測する名うての気象庁が、ミスするわけはないとは思っている。しかし、本当に梅雨は明けているのだろうか? と、再びの疑念が生じていた。なぜなら私には、梅雨明けは日本列島のどこかに、雨による災害をもたらしてのち明けるという、過去体験からもたらされている確かな信念がある。このところ連日、テレビニュースは、日本列島のあちこちにおける洪水や土砂崩れの被害状況を伝えている。これらのニュースを見聞すると私は、例年の梅雨明け前の状況の写し絵を観ているように感じていた。言うなれば、梅雨明け前の典型的な気象現象である。一方ではむりやり、気象庁が間違うわけなどないとも思っていた。だとしたら、ケチをつけるだけのわが下種の勘繰りである。さて、このところの私は、糠喜びと喜びと腑抜け状態の心境にある。これらの心境は、掲示板に表示のカウント数値の一日当たりの増減によってもたらさている。カウント数値とて、延べ人数含みだから実数は知るよしない。ところが、きのうよりきょうが増えていれば糠喜び、その逆の場合は腑抜け状態になる。確かに、ごく小さな数値に一喜一憂するのは馬鹿げている。しかしながらしれには、わが成績表を愉しんだり、悲しんだりする思いがある。大まかには、カウント数値は減少傾向にある。わが文章のまずさの証しだから自業自得である。確かに、苦しんで書く価値(甲斐)はない。それゆえに私には、ご常連の皆様のありがたさが身に沁みている。もとより「ひぐらしの記」は、わが六十(歳)の手習いと、掲げている生涯学習のノート代わりである。自分自身のノートであれば生来三日坊主の私は、二日と続かないのが常である。ところが「ひぐらしの記」にかぎり、べらぼうに長く続いている。これこそ、ご常連の皆様ら授かっている果て無い恩恵である。浮かんでいる文章の構文を用いれば、「いくら感謝しても、しすぎることはない」。きょうの文章は、何ら脈絡のない独り善がりの文章である。それゆえたぶん、カウント数値は減るだろう。だけど、「お構いなし」。今や継続だけが価値(甲斐)の文章である。指先ヨチヨチのせいで時間がたって、雲間に青空が見えて、いくらか朝日が輝いている。待ち望んでいた夏の朝の訪れである。きのうの災害報道を打ち止めにして、案外、きょうから梅雨明けなのかもしれない。気象庁にはちょっぴり、恨みつらみがある。しかし、ようやく訪れた夏の朝にあっては、もうそんなつまらないことは忘れよう。なぜなら、降り続いていた雨は上がって、わが好む夏がやって来たのである。こんな文章を書いたからと言って、私には気狂いの自覚症状はない。

天与の恵み

七月十九日(火曜日)、起き立ての風は、早や秋の風である。窓ガラスを網戸にすると、ひやりと冷感をおぼえる風がどどっと、吹き込んだ。想像上の鬼は、人間の難敵である。いたるところで悪さをする。まさしく悪魔である。漢字の成り立ち、すなわち「魔」の部首は「鬼」である。普段、二度寝にありつけず苦しむ私は、ときには鬼にすがり、確かに「睡魔」に襲われたい気分山々である。ところが、実際には二度寝に睡魔は現れず、悶々するのがたまらず起き出してくる。しかし昨夜は、二度寝を誘う睡魔が現れたのである。久しぶりに途中目覚めず、熟睡にありついた。熟睡は安眠とほぼ同義語である。それゆえ起き立のわが気分は、すこぶるつきの爽快である。好事魔多し。一方では執筆時間に急かされて、現在のわが気分は大慌てである。こんな気分では、心象で書く文章は書けない。しかし、文章は書けなくても損はない。しばし、天与の恵みに酔いしれたい気分旺盛である。だから、尻切れトンボの恥をさらしても、恥じることもなく、これで書き止めである。現在の私は、至境すなわち「桃源郷」に住んでいる。曇り空にあって、朝日の輝きはない。けれど、熟睡にありついて、全天候型に心地良い夏の朝である。熟睡を恵んだのは、案外、秋の気配のせいかもしれない。そうであれば夏を好む私は、熟睡を手放しには喜べない。できれば欲張って、明日の夜も、睡魔に襲われたい。ところが案外、二度寝を妨げるのも、鬼のしわざなのかもしれない。人間にとって鬼はやはり、とことん魔物である。

八十二年の来し方、一部回顧

七月十八日(月曜日)、二度寝にありつけず起き出してきて、朦朧頭で八十二年の来し方を顧みる。親兄弟がかける愛情には、まったく不満や不足はない。なかったと言いきらなかったのはひとり、至上の愛情を持つ次兄が生存中ゆえである。親類縁者との交流は常に親しく、何ら不足はない。配偶者選びは、しがないわが身をかんがみれば、これ以上を望むのは欲ボケである。隣近所との交流にも、諍(いさか)いはない。友人、知人との交誼にあっては、共にとりわけ厚誼に恵まれて、すべての人がわが人生の指導者の位置にある。就学初めの小学一年生と二年生のご担任で、今や恩師と崇める渕上先生は、乳母(めのと)ごときの育ての親である。小中高そして大学選び、またこの間における成績は、わが能力をかんがみればできすぎであり、悔いるところはない。職場選びには、格別悔いはない。いや幸運にも、わが身を完全無欠に託し得た、極め付きの優良会社だった。職場における上司、先輩、同僚、そして後輩、すべてに恵まれて、これまたまったく悔いはない。総まとめにして、わが八十二年の人付き合いには恵まれて、まったく悔いのない、わが身に余る僥倖、すなわち豊かな人生だった。それなのに私は、文章を書けば愚痴ばかりをこぼしている。結局、わが愚痴こぼしの元凶、すなわち悔い事は、すべて自分自身のしでかしのよるものである。最大の悔い事は、生後十一か月のわが唯一の弟・敏弘を、わが子守(四歳半の頃)の不始末で、亡くしたことである。「身から出た錆(さび」。焦げ付き錆の多い、八十二年の来し方である。過去形にしなかったのはなおこの先、自分自身がしでかす悔い事が続きそうだからである。無宗教を任ずる私は、アーメンとか、南無阿弥陀仏とかは唱えず、「くわばら、くわばら」で、お茶を濁すところである。いまだ一部回顧であっても、心苦しいものがある。ましてやこの先、人生の総括をするときには、どんなにか心苦しいものとなろう。きょうもまた夜明けの空は、朝日の見えない雨空である。ところが、わが心中の(雨は、土砂降り)である。

ごちゃまぜの文章

七月十七日(日曜日)、またもや朝日の見えない夜明けが訪れている。本当に梅雨は明けているのであろうか。気象庁は大きなミスをしでかしているのでは? と、勘繰りたくなる。このところ、ぐずついている天気のせいである。さて、八十二年生きてきて、いや生きてみて、われ語る。来し方は、短いと感じている。それに加えるこの先は、もう僅かである。だから、人の一生は、短いものである。考察というより、現在のわが感慨である。だからと言って、どうすることもできないのが、人はもとより「生きとし生けるもの」の命の定めである。雨模様、曇り空に乗じてこのところの私は、庭中の夏草取りに向かっている。気を入れてやれば、一日もかからず済むほどの狭小な庭中の草取りである。ところが、腰痛持ちの私には、草取りにおけるみずからの決め事(定番)がある。それは百円ショップで買い求めたプラ製の椅子に腰を下ろして、まるでドンガメみたいにノロノロと、前へ進まざるを得ないことである。こんな体たらくではもちろん、草取りははかどるはずもない。抵抗する雑草、いやときには雑草とバカ呼ばわりにはできないほどにか弱く、可憐な草に出遭うこともある。こんなときには瞬間、わが指先は躊躇する。また、草取りにつきものは、わが意図せずとも地中のミミズの追い出しがある。このときのわが境地は、素直に「ごめんね!」である。ところが、このときのミミズの態様には、おおむね二つがある。一つは、たちまち長身痩躯をくねくねとして、逃げ場(隠れ場)を探しまわるものがいる。一つは不貞腐れて、その場にねそべっているものがいる。切なさと憐憫の情をおぼえるのは、もちろん前者である。それに比べて後者は、なんら可愛げなく、その図々しさが憎たらしいだけである。しかしながら私は、どちらも指先でつかんで、草を取り終えたところに移してやり、さらに土をふりかけて、日光のお出ましを遮(さえぎ)っている。こんな殊勝な行為は、子どもの頃の罪償いのだめである。子どもの頃の夏の楽しみは、夕方「内田川」に「延え込み」(ふるさとの川魚取りの仕掛け)を掛けて、夜明け前に引き上げることだった。この仕掛けの狙いは、主にウナギだった。このとき、針先にさしていたのはミミズだったのである。ミミズがウナギに変わっていた朝の私は、狂喜乱舞した。台所へ飛んで帰ると母は、「ウナギがかかっていたばいね!」と言って、坊主頭をなでなでした。私にとってミミズは、もちろん虫けらではない。いや、この上ない思い出を育んでくれた、かけがえのない同僚である。だからその命、今では粗末にはできないと思う。しかしながら、後の祭りである。草取りにおける罪滅ぼしは、わが自己慰安だけである。短い来し方にあって、「内田川」の「延へ込み」は、最も楽しい思い出である。他郷にあっては、もうその楽しみはない。その楽しみがなければ、命尽きても損な気はしない。ごちゃまぜの文章にあっては、表題のつけようがない。

高橋弘樹様へ、感謝!

たび重なる「大、大、大、エール」を賜り、お礼を申し上げます。高橋様の温かい心遣いは、すぐさま書き殴りの疲れを癒してくれます。だから、ありきたりの言葉でははなはだ心苦しいけれど、心から感謝申し上げます。生煮えの夏も、これから本来の盛夏へ向かいます。ご自愛ください。

しがない作者の、これに尽きる冥利

七月十六日(土曜日)、未だ明けきれない夜明けにあって、生々しく舗面を濡らしている、どんよりとした梅雨空が視界を覆っている。それゆえ、清々しい夏の夜明け、夏の朝ではない。きょうは、七月盆の最終日、すなわち送り日(火)である。掲示板上にはおととい(七月十四日)書いた『生煮えの夏』、そしてきのう(七月十五日)書いた『わが命(人生)、八十二年』の文章が張り付いている。ところが、憎たらしいけれど、『生煮えの夏』は、きょうへ引き継いでいる。一方、当を得た表題だったなあー…と、ひとりほくそ笑んでいる。「暑い、暑い夏!」という言葉の合唱は、このところはすっぽりと姿を晦(くら)ましている。歌の文句じゃないけれど、「だから言ったじゃないの、暑い、暑いと言って、自然界に恨みつらみを言うのはよしなさい!」。いや、夏が暑いのは、自然界の恵み、すなわち天恵である。だから、「暑い、暑い」と言って、天恵をこっぴどくたたくと、しっぺ返しをこうむると思うべし。案外、生煮えの夏は、自然界の手っ取り早い仕返しかもしれない。この文章の表題は、いまだわからない。書き殴りが済んだ後に、おのずから浮かんでくるはずである。きのうは朝一番にふるさと便、いやこの場合は、ふるさと電話のベルが鳴った。毎年の習わしとはいえ、いまだ朝御飯中だったからびっくり仰天、私は口をモグモゴさせながら、固定電話の受話器を難聴の耳に当てた。ふるさとの姪っ子の馴染んだ声が、受話器に弾んだ。「叔父ちゃん、お誕生日、おめでとうございます。たくさん、長生きしてくださいね。きのうのお父さんの初盆には、いろいろとしてもらって、ありがとうございました」「おう、早いね。きょうも電話来るかな? と、思っていた。だけど、早いね。もう、死にたいけど、まだ死ねないね。こちらにもいろいろ、あってね。兄の初盆には帰れず、ごめんね。初盆、お疲れさま。ありがとう」「帰ってこんでもよかですよ。いろいろとしてもらって、ありがとうございました。叔母ちゃんのぐあい、どうですか。熊本はコロナが増えています。身近になって怖いです」「そうだね、熊本県は人口比では沖縄県に次いで二番目だね。神奈川県も多いよ。ほんとに、怖いね!」「叔父ちゃん、ありがとうございました。叔母ちゃんによろしく、言ってください」「ありがとう。じゃ、またね」。きのう書いた『わが命(人生)、八十二年』には、七月盆のさ中における、わが誕生日の重なりにたいし、「奇しくも」という言葉を添えた。ところが「ばかじゃなかろか!」、私は肝心要のもっと摩訶不思議なめぐりあわせのことを添えそびれていたのである。それはすなわち、私にとっての「七月十五日」は、七月盆のさ中、わが誕生日、さらには母の祥月命日という、三つ巴の重なりの日である。電話してきた姪っ子は、昼間はいつも母(祖母)の膝に乗っかり、寝床では毎晩、祖母の布団の中にスヤスヤとうずくまっていた。こんな私的なことを世界版(ブログ)に書けるのは、「ひぐらしの記」の恩恵と、そしてそれを許してくださるご常連の皆様のあたたかい、声なき声のおかげである。あたかもきのうのカウント数は、このところの最高値を示していた。だから、ひとことで言えば、「しがない作者の、これに尽きる冥利」である。書き殴り文、結文へたどりついた。おのずから表題が決まった。明けきった夜明けは、今にも大空からぽたぽたと、いや土砂降りに雨が落ちそうである。幸いなことには、私は「暑い、暑い!」とは、言っていなかった。だから、私への仕返しはない。ただちょっぴり、夏の朝の清々しさが遠のいていることには残念無念である。だけど、ちっとも恨みはしない。

♪Mr.MAEDA Happy Birthday!!

前田さん、本日はお誕生日おめでとうございます。
心からお祝い申し上げます。
本当のところ、SFになってしまいますが、前田さんへタイムマシーンをプレゼントして、過去の内田村に出かけられて、前田さんのお父様とお母様と会談していただき、リアルに懐かしさを味わっていただきたい、と思っているところです。
さらには、お釈迦様にもお会いいただいて、悟りの境地のお話をお伺いいただき、そのお話をぼくにも伝えていただきたい、と思っている次第です。

こちらは、6月下旬の酷暑ウィークで大打撃を受け、暑さの落ち着いた今でも尾を引いている状況ですが、前田さんのHappy Birthdayに大大大エールを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/