春うらら

3月12日(日曜日)、起きて、こんなことを浮かべている。天災は、人間の知恵の及ばないところに隠れている。だからこの瞬間とて、地震が起きるかもしれない。時刻はまさしく、「阪神淡路大震災」(平成7年・1995年1月17日)の発生時刻(午前5時46分)にある。この日時は、うろ覚えではなく正確な記憶である。なぜなら当時の私は、勤務時代における大阪支店に在籍しており、被災地・兵庫県尼崎市東園田町の単身赴任者用の会社・借り上げマンションの一室「401」で遭遇したからである。きのうのテレビニュースは、12年前に起きた「東日本大震災」(平成23年・2011年3月11日,午後2時28分)で、ほぼ埋め尽くされていた。今でもどちらも、地震の恐ろしさが消えない哀しい記憶である。地震の恐ろしさと痛々しい記憶は、決して忘れ、消えるとはない証しである。ところが、天は罪作りである。きのうの東京の空は、首都の隅々にまで陽光こぼれる「春うらら」だった。まるで、地震の恐ろしさと未だに生々しい記憶を消し去るでもするような、まさしく麗らかな春日和だった。私は行動予定にしたがい、東京都国分寺市内に在る次兄宅への朝駆けを敢行した。「ひぐらしの記」を書き殴りで終えると、朝飯抜きにわが家を飛だった。時刻は7時過ぎ、それでも、次兄と顔を合わせたのは、10時半頃だった。12時半近くまで在宅した。いつもより帰りを急いだ。こんな魂胆をたずさえていたせいである。いつもであれば私は、JR中央線・新宿駅で下車し、湘南新宿ラインに乗り換えて、わが下車駅・大船へ向かう電車に乗る。ところがきのうの私は、新宿駅には降りずに、その先四ツ谷駅を挟んで、「御茶ノ水駅」で下車した。まずは、かつて通った母校・中央大学の校地に建てられた新キャンパスを見るためであった。ここを終えると、東京メトロ「御茶ノ水駅」から乗車し、二駅そして後楽園駅を挟んで、「茗荷谷駅」で下車した。茗荷谷駅は、勤務時代の下車駅である。この近くにも、母校の新キャンパスが建てられていた。それを見物し終えると私は、途中勤務した社屋(本社)を眺めながら、後楽園駅までテクテク歩いた。WBCの行われている「東京ドーム」を目の前にして、「後楽園駅」から電車に乗り、帰りに方向を変えた。今、スマホを手にして、きのうの歩行数と距離を確認した。それは、11,635歩と、そして8・9キロメートルだった。歩きながらのわが心中には、会社同期入社仲間の渡部さん(埼玉県所沢市)の偉大さだけが浮かんでいた。渡部さんは「ひぐらしの記」では、お馴染みである。私が友情を超えて敬愛する人である。現在、渡部さんは首都圏(東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県)にある郵便局の大小にかかわらず、文字どおりそれぞれに貯金をしながらしらみつぶしの敢行の途中にある。すでに、3500か所の郵便局回りを果たされて、現在は、千葉県周りのさ中だという。きょうの文章は、このことを書きたかったのである。この後のテレビ番組を観るため、尻切れトンボを恥じて、ここで書き止めである。東京メトロの一駅間を歩きながらわが足は、ヨタヨタに疲れ果てていた。渡部さんの偉大さが身沁みた、春うららの歩行だったのである。渡部さんは僻地に住む、わが住宅地内にある最小規模の郵便局周りは、すでに済まされている。世の中には、いやわが仲間にはこんなにも偉大な人が存在する。地震なく、きのうに続いて、春、麗らかな夜明けが訪れている。