3月22日(水曜日)、きのうの「春分の日」(21日・火曜日)を過ぎて、彼岸明け(24日・金曜日)へ向かっている。春風駘蕩、夜明けの空はのどかな花曇りである。しかし、日中に向けては花日和になりそうである。まかり間違っても、花に嵐にはならないであろう。しかしながら自然界の営みは、一寸先は闇の中にある。地震さえ起きなければたとえ花曇り、あるいは花に嵐であっても、わが生活に障りはない。きょうのわが主たる営みには、きのう同様にWBC(ワールド ベースボール クラシック)のテレビ観戦が、朝早く(8時)から予定されている。戦争だけは抜きにして、野球にかぎらず勝敗を決める戦いぶりには、言葉でいろんな表現が用いられる。戦い(試合)ぶりには総じて、熱戦と凡戦がある。勝ち方には、おおむね完勝と辛勝がある。負け方には逆に、完敗と惜敗がある。これらの言葉を用いて、きのうの日本対メキシコ戦を表現すれば、試合自体はスコア(6対5)どおりに熱戦であり、勝敗は日本の辛勝だった。もちろん、メキシコは惜敗だった。オマケに日本は、九回裏でのサヨナラ勝ちだった。それを演じたのはこれまで、当たりが止まっていた日本チームの主砲・三冠王の村上選手(村神様)だったのである。ゆえに特等の言葉を付して言えば、きのうのメキシコ戦は、日本の胸の透く快勝だった。きのうの準決勝戦の勝利を得て、きょう臨む決勝戦の相手は、メジャー(大リーグ)を営むアメリカチームである。参加することに意義のあるオリンピックとは違ってWBCは、快感と悲惨の境をなすところがある。局外者すなわち他人行儀に言えば、勝敗を分けるからテレビ観戦は面白味がある。試合は、結果の予想も楽しみである。しかしながらきょうの私は、予想無しにテレビ観戦に臨んで、試合自体を満喫するつもりでいる。ロシアとウクライナの戦いは「試合」とは言えず、戦慄窮まる「戦争」である。至極、残念無念である。時が進んで大空は、真っ青の花日和である。 冬が去り、めぐってきた「春分の日」(3月21日・火曜日)。まさしく頃は良し、「暑さ寒さも彼岸まで」。きょうを境に私は、冬防寒重装備を脱ぎ捨てる。起きて、季節の良さを表す、一つの成句を浮かべている。「春眠暁を覚えず」。ところが、私の場合はこれに逆らって、「早起き鳥」の状態にある。てっきり、心の病の証しなのかもしれない。老いは、わが歩く姿と心境の変化をもたらしている。生来、恥ずかしやの私は、仕方なく、杖代わりに妻の手を引いてノロノロと歩いている。自分自身これまで、心中に浮かべたこともない光景であり、「清水の舞台」から飛び降りるほどの心境の変化である。確かな、わが老いの惨めさでもある。しかし、妻との年齢差(三つ)からすれば、本当は逆にもなり得たのである。ところがそれが、図らずもこうなったのは、妻の転倒による骨折、入院、手術、そして退院後のリハビリによるものである。だから私は、妻の悔しさを慮り、柄になく、妻への労わり心をたずさえて歩いている。確かに、共に「年には逆らえない」けれど、飛んだ早すぎる「妻の災難」だったのである。以来、共に「泣けてくる」。頃良い「春分の日」にあって、こんな文章しか書けないようでは、「ひぐらしの記」は、そろそろおしまいである。夜明けの空は、のどかな朝ぼらけである。 3月20日(月曜日)。バカじゃなかろか! 冬が去り、春が来て、それなのに気分が萎えている。春ボケではない、意識は確かである。先日は妻を連れ立って、阪神タイガース対横浜ベイスターズのオープン戦観戦に横浜球場へ出向いた。最後の晩餐になぞらえた、おそらくわが夫婦の人生最後の球場における野球観戦だった。きょうの春の高校野球の第一試合では、長崎県・海星高校をテレビ応援する。明日(3月21日、火曜日)の午前八時からは、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の準決勝戦、日本対メキシコ戦が放映される。準決勝と決勝戦はこれまでとは異なり球場は、東京ドームから離れて海外へ移される。すなわち、わが未知の国「マイアミ」(アメリカ南東部フロリダ州)である。私は、これまでの中国、韓国、チエコ、オーストラリア戦も、テレビ観戦をし続けてきた。私は物心ついて以来、根っからの野球好きである。それゆえに明日のメキシコ戦もまた、一応テレビ観戦するつもりでいる。あえて「一応」と付したのは、生来のわが性質がへそ曲がりのせいである。私は「侍ジャパン」という呼称における、「侍」に違和感をおぼえて、不要にさえ思えている。できれば日本代表チーム、もっと単には「日本(にっぽん)」でよさそうに思う。アナウンサーが「侍ジャパン、侍ジャパン!」と熱狂する声は、私には怒号に響いて試合(熱戦)そのものが興ざめとなる。ブーイングを覚悟して、書きたくなった。野球は、死ぬまで好きである。「ひぐらしの記」は、そろそろ、止めようかなと、思っている。 古閑さん、感想をどうもありがとうございます*(^o^)/*\(^o^)/ 3月19日(日曜日)。未だ夜明け前(4:34)にあって、きょうの天気はわからない。きのうの彼岸の入り日は、雨風強い大嵐だった。私も驚いたけれど、開き始めの桜の花も、さぞかし驚いたことであろう。しかしながら自然界は、大嵐とて一日くらいで済み、きょうあたりは穏やかな春日を恵むであろう。なぜなら、仲間のせっかくの花便りを無為にすることはないであろう。自然界は、百花斉放・百花繚乱の季節にある。自然界に比べれば、人間界は愚かである。異国では、期間限定の無い戦争が続いている。戦地や戦場ではなく、テレビ画像で見るだけでも、人間の愚かさと虚しさに打ちひしがれる。人間の幸不幸は、生まれた国、生まれた年代、折々の社会情勢の違いで、こうも異なるのかと、日々実感するところである。本当であれば無限の動物の中で、唯一人間として生まれたことは、最大の幸福のはずである。ところがそうとは言い切れない、現下の人間事情である。翻って、私自身は幸福である。日々、くだらない文章を書いても、咎められることはない。近眼、難聴、虫歯、そしてたまの口内炎の発症はあるものの、我慢さえすれば健康体である。血液検査に出る異常値は、クレアチニン(腎)とLDL(悪玉コレステロール)に見られるものの、気にしても仕方がない。何よりも、血圧と心電図は正常である。生きるための肝心要の食欲は、三度の御飯では飽き足らず、なおひっきりなしに間食を加えてもまだ足りず、手あたりしだいの駄菓子の餓鬼食いで凌いでいる。知恵や知能に恵まれない者、すなわち私の幸福は、これらの証しで十分であろう。まったくみすぼらしいけれど、十分満足すべき「わが幸福論」である。どういう風の吹き回しなのか、きょうの私は起きて、こんなことを書きたくなっていた。たぶん、異国における長引く戦争の惨禍を観るに忍びないせいであろう。夜明けの空は、どんよりした曇り空である。このまま昼間になれば、花曇りと呼ばれそうである。 みんなきれいに咲いていますね。 3月18日(土曜日)、起き出して来て、外は雨降りである(5:29)。何も書くことがない。いや、文章を書く気になれない。なさけないというより、つくづく困った心境である。もうとっくにわが心境は、文章を書くには賞味期限を超えて、消費期限さえ切れている。分別する手間などなくして、ごみ置き場へ運ぶより仕方がない。机上カレンダーを眺めながら、一つだけ書けばきょうは、「春彼岸の入り日」とある。中日、すなわち「春分の日」(21日・火曜日)は、この先に訪れる。心中に浮かび、それについて思うことを一つだけ書けばそれは、日本の国の喫緊の社会問題である。しかしながらこれとて、今やどうにもならないことである。きのうの夕刻(6時から)、NHKテレビは、岸田総理の会見を映していた。会見の趣旨は、日本の国の出生減少傾向を止めるための日本政府肝いりの、国民に対する様々な施策の説明であった。中でも岸田総理は、「育休」をはじめとする、子どもを産みやすくするための日本政府の様々な支援策(手立て)を縷々述べられていた。もちろん、施策のそれぞれは大事なことであり、「ないよりまし」という、効果はありそうである。しかしながら私には、諸々の施策というより、このときのテーマの「育休」に関しては、腑に落ちないところがあった。その一つはまた、格差社会を助勢するだけで終わらないだろうか? という危惧である。三人、四人と産める人たちは、もとよりそんなに支援を要しない富める人たちであろう。いや、目下の日本社会は、二人で一人さえ産むことのできない、すなわち結婚難儀(結婚敬遠)にさらされている状況であろう。だから、わが下種の勘繰りからすれば育休施策の前に、本当のところは結婚難儀問題の施策こそ肝心要であろう。ところが、結婚環境をととのえることは、育休よりはるかに難題である。それゆえに日本政府も、出生問題の本題すなわち結婚環境(施策)に入ることには、逃げ越しにならざるを得ないのであろう。「暑さ寒さも彼岸まで」、春ボケかつネタ無しゆえの戯言(たわごと)である。夜明けの地上は、雨・風ひどい春の嵐である。世の中には、あがききれない難題がたくさんある。だれしも、人生行路はその最たるものである。 江戸錦、きっときれいな花が咲くことでしょう。試合と戦争
「春分の日」
春ボケではない、意識は確かである
♪古閑さんへメッセージ2です♪
これから満開になるのを日々楽しみにしているところです♪♪私の「幸福」
高橋さんへ
彼岸の入り日
高橋さんへ
楽しみですね。