この小説の主人公である織田龍吉は、著者の母方の祖父、岩戸浅太郎をモデルにしたものである。彼は、明治十三年に兵庫県豊岡村字岩熊に生まれ、十六歳で大工の棟梁になった。島根県の宍道湖西岸の広大な葦の原を田園地帯にする壮大な夢を抱いて彼が生きた明治・大正・昭和初期は、日本の歴史の中でも激動の時代であった。
龍吉の母親は、彼が幼い頃に病気で亡くなったため、祖母に育てられた。しかしその祖母も、彼が十二歳の年に世を去った。
祖母の葬儀の日、龍吉は三歳年上の従兄の亘から東京の学校を出て、将来は政治家になりたいという夢を聞かされ、自分の現在暮らしている環境からは考えもつかない別世界のことと思いながらも、彼の体には訳の解らない昂ぶりが湧き起こる。
しばらくして村の大工の棟梁の元に預けられた龍吉は、昔は村で評判だった腕利きの大工銀蔵に出会った。銀蔵は、酒好きがたたって落ちぶれてしまっていた。龍吉はその彼に見込まれて、大工の技を仕込まれて、若くして棟梁になる。
龍吉が島根県の宍道湖西岸の葦の原に辿り着くまでの道程は波乱万丈で、彼の出逢った人々も様々である。
宍道湖西岸の葦の原を広大な穀倉地帯にする龍吉の夢は、戦争に阻まれ、水害や干ばつ、塩害などの天災に見舞われ、困難を窮めるのであるが、困難に出合うたびに彼の夢はますます大きく膨れあがっていった。
著者はあとがきに、この小説を書くに至った経緯を書いている。著者は、陶芸家で茨城県の三和町にある人里離れた地に望月窯(もつきがま)を築いている父坂本宗生に師事して、一九九二年に陶芸の道に入った。
著者の両親の故郷は島根県である。著者が毎週末作陶のために訪れると、食後やお茶の時間に昔話が弾む。当然、父母の両親や友人、知人のことにまで話題が広がっていく。
著者の心には繰り返し聞かされるそれらのことの中で、祖父岩戸浅太郎の人生が深く刻みこまれていき、やがて何とか小説の形で残しておきたいと思うようになった。
父母の過ぎ去った遠い記憶を何度も手繰り寄せてもらいながら、著者の祖父の生涯が少しずつ再現されていく。それは、著者の母にとっては特に思い出すことは楽しいことばかりではなく、切なく辛いできごとも数多くあった。
名もないひとりの人間の生涯は、その本人が死んでしまえば、消え失せてしまう。本書の主人公龍吉の存在も、著者が書き残さなければ風化してしまう。島根県宍道湖西岸の葦の原を開拓しようとした龍吉の夢は、この著書によってこの世に生き続けていくのである。(自費出版ジャーナル第49号)
葦の原の夢
大沢久美子著