
大沢久美子撮影 高橋さん、椿を購入されたんですね。しかも私の影響とか、びっくりしました。蕾もありきれいな花が咲きそうで楽しみですね。ぜひ大事にしてください。 大沢さんの望月窯、写真を見ると自然の中にあり良いですね。春の陽気な日に仲の良い姉妹で楽しそうにいろいろな手入れをしているところが目に見えるようです。大沢さんにとって望月窯はご両親が遺された家宝ですね。 先生、望月窯の落葉の清掃と萱の抜き取り作業、本当にお疲れさまでございました。 大沢先生のおっしゃる通りで、古閑さんにつられました(大笑)。 高橋さん、古閑さんにつられましたね。この時期、花屋さんのそばを通り過ぎるのは悩ましいですよね。花たちが流し目で誘いかけてきます。私は、野菜の苗が並べられているのも、立ち止まって思案してしまいます。とにかく心が騒ぎます。 3月10日(金曜日)、パソコンを起ち上げるといつも考える。いや、何を書こうかと悩んでいる。文章にする得意分野(ジャンル)を持たないせいである。おのずから、得意分野を持って、スラスラと書ける人に憧れる。何年書こうと、死ぬまで書こうと、この悩みは消えない。言うなれば、わが生涯における尽きない悩みである。現在は、こんなつらい心理状態にある。文章なんて、容易(たやす)く書けるはずだ。なぜなら、心中に思っていること、あるいは浮かんでいることを、語彙(言葉と文字)に替えれば済むことだからである。人間だれしも、心中がまったくの空っぽになることはない。ガラクタであっても、何かしらを浮かべている。学童の頃の「綴り方教室」においては、浮かんだことを原稿用紙に埋めていた。ところが現在は、適当なネタを探し、ネタが浮かべば文脈を考える。次には、文脈にそう適語や飾り言葉(修飾語)を探す。すると私は、文章をものにするこの流れに行き詰まる。挙句、しばし机上に頬杖をついている。現在の私である。しかし、書けなく、頬杖をついていても、焦ることはない。いや、気分は和んでいる。それは、寒気をまったく感じない、気分の緩みのせいである。春夏秋冬、春の恵みはかぎりなく膨大である。気象予報士によればきのうの関東地方は、5月頃の暖かさだったと言う。そしてきょうは、雨の予報である。ところが、のどかな春雨でとどまらず、乱れて嵐になるところがあると言う。しかしながら、春には嵐がつきものと思えば、そう気にすることはない。寒気さえ遠のけば私は、荒れ模様の天気でも構わない。コロナは収束へ向かっている。桜だよりは日を追って、賑やかになりつつある。ただ、好日にあってきょうの私には、妻の通院における引率同行予定がある。もとより、引率されるよりはましだから、仕方がないとは言えない。妻の身を労わり、わが身を労わり、共に人生晩年の日々はめぐっている。命の終焉まで残り日少なく、万感きわまりない歳月のめぐりである。だから、どんな春でも粗末にするのはもったいない。ネタなく、こんな文章を書いてしまい気恥ずかしい思いである。いや、気恥しいと言って、怯(ひる)むことはもったいない。雨模様の夜明けが訪れている。山の枝木の揺れは、まったくない。 3月9日(木曜日)。春は、半ばへ向かっている。摘み残っていた庭中のフキノトウは、文字どおりすでに臺(とう)が立っている。起きて、寒気は緩んでいる。心は、穏やかである。心身、縮むことなくのんびりとキーを叩いている。夜明け前に文章を書く私にとっては、寒さが遠のいたわが世の春の到来である。ところがこれは上部(うわべ)だけにすぎず、心中はそうではない。なぜなら文章のネタなく、しどろもどろの状態にある。文章の才無き私には、文章を書くことには絶えず「苦痛」がともなっている。苦痛の対義語は「快楽」である。文章を書く上で、快楽はあるであろうか。苦痛だけで快楽が無ければ、生来、三日坊主の私ゆえに、継続はあり得ない。ところが、曲がりなりにも継続が叶えられている。その理由には二つある。一つは、生涯学習に「語彙」のおさらいや新たな学びを掲げているからである。すると「ひぐらしの記」は、大沢さまのご好意にさずかり、生涯学習の実践の場(機会)にあずかっている。ところがなさけないことに心中は、(止めたい、書けない)という苦痛の状態にある。この苦痛にわずかでも快楽を求めればそれは、文脈に適(かな)った語彙が浮かんだときである。滅多にないことだけれど、浮かんだときには確かに快感を覚えている。しかし、苦痛と快楽を天秤にかければ、苦痛はなはだ重く天秤棒はピョンと一方へ傾き、測定不可能となる。「苦痛と快楽」、言葉の学びだけの文章である。継続の足しにはなっている。しかし、快楽(感)は、まったく無し。日の出の早い、夜が明けている。 3月8日(水曜日)、桜前線北上中にあって、寒気が緩んでいる。春が来て、自然界が恵む飛びっきりの日暮らしにある。しかしながら一方、ゆめゆめ気を許せない、名残雪、寒の戻り、憎たらしい春に嵐の季節でもある。それゆえに、のんびりと桜前線を待つ気にもなれないところはある。季節変わりは、おのずから体調変化にも見舞われる。春、油断大敵と心すべきある。幸いなるかな! 私自身は免れているけれど、目下、多くの人が花粉症に悩まされる季節である。確かに、わが家周りの山からも日中、目に見えてスギ花粉が飛びちらついている。それでも花粉症にならないのは、私自身、杉山育ちゆえのせいかもしれない。案外、仲間にたいする施しみたいに、杉にたいする耐性ができているのかもしれない。生誕地は、里山および遠峯にわたり杉(杉山)だらけであった。すでにこの世にいないふるさとの長兄は、村中で唯一の製材所の加勢仕事で、杉苗植え付けに精を出していた。なぜか? 当時は、花粉症という言葉さえなかった。これらのことを鑑みて私は、今なお花粉症の真犯人がスギ花粉を散らかす杉(杉山)とは到底思えない。いやむしろ杉(杉山)は、冤罪を被っているのではという、疑念に取りつかれている。子どもの頃の私は、家事手伝いの中心として、しょっちゅう杉山に入っていた。一つは、薪取りとして枯れ落ちた枝木を集めて縄で縛り、肩にしょって持ち帰っていた。一つは、枯れた杉の葉を拾い籠に入れて持ち帰り、日々の風呂沸かしや竈(かまど)の焚きつけ用にしていた。生活資材にかかわらず、見晴るかす杉(杉山)、日常生活における無償の絶景を恵んでいた。これらのほか杉(杉山)は、メジロ落としや山鳥の罠掛などでも、子どもの私を愉しませてくれていた。言うなれば当時の杉(杉山)は、わが家の生計を助け、わが子どもの頃の家事手伝いと遊楽の一角を成していたのである。これらの切ない思い出があってか私は、花粉症におけるスギ花粉真犯人説には、今なお異議を抱いている。いや異議は、恩恵を享けた杉(杉山)にたいする、憐憫の情沸くわがありったけのエール(応援歌)である。花粉症に悩まされる人からは、鼻持ちならぬこととして、大きな罰を受けそうである。しかしながら書かずにはおれなかった、杉(杉山)にかかわる切ない思い出である。桜便りは、花粉症の季節でもある。マスクの着用は、コロナ感染防止だけとはかぎらない。身勝手すぎる、かたじけない文章を書いてしまった。起きて、ネタ不足のせいである。
高橋さんへ
蛇足まで、花が咲き終わったら来年のために4月にもう一回り大きな鉢に植え替え、6月には肥料を多くやってください。一度にドサッと多くやると枯れる恐れがあるので少しずつ頻繁にやるのがいいそうです。妻は他の花にも肥料をやっているのでもしかしたらその後も少しぐらいやっているかもしれない、と言っていました。自然の中で
また花や野菜もお好きなことがよく分かります。♪大沢先生へ『望月窯だより』の感想です♪
これからの望月窯、たいへん楽しみですね♪♪♪大沢先生へメッセージです♪
花屋さんには、実付きのイチゴも売られていたのですが、「どうしようかな?」なんて思っているうちに完売となってしまいました(苦笑)。誘われて
実のない「作文」
苦痛と快楽
桜だよりは、花粉症の季節



