実のない「作文」

3月10日(金曜日)、パソコンを起ち上げるといつも考える。いや、何を書こうかと悩んでいる。文章にする得意分野(ジャンル)を持たないせいである。おのずから、得意分野を持って、スラスラと書ける人に憧れる。何年書こうと、死ぬまで書こうと、この悩みは消えない。言うなれば、わが生涯における尽きない悩みである。現在は、こんなつらい心理状態にある。文章なんて、容易(たやす)く書けるはずだ。なぜなら、心中に思っていること、あるいは浮かんでいることを、語彙(言葉と文字)に替えれば済むことだからである。人間だれしも、心中がまったくの空っぽになることはない。ガラクタであっても、何かしらを浮かべている。学童の頃の「綴り方教室」においては、浮かんだことを原稿用紙に埋めていた。ところが現在は、適当なネタを探し、ネタが浮かべば文脈を考える。次には、文脈にそう適語や飾り言葉(修飾語)を探す。すると私は、文章をものにするこの流れに行き詰まる。挙句、しばし机上に頬杖をついている。現在の私である。しかし、書けなく、頬杖をついていても、焦ることはない。いや、気分は和んでいる。それは、寒気をまったく感じない、気分の緩みのせいである。春夏秋冬、春の恵みはかぎりなく膨大である。気象予報士によればきのうの関東地方は、5月頃の暖かさだったと言う。そしてきょうは、雨の予報である。ところが、のどかな春雨でとどまらず、乱れて嵐になるところがあると言う。しかしながら、春には嵐がつきものと思えば、そう気にすることはない。寒気さえ遠のけば私は、荒れ模様の天気でも構わない。コロナは収束へ向かっている。桜だよりは日を追って、賑やかになりつつある。ただ、好日にあってきょうの私には、妻の通院における引率同行予定がある。もとより、引率されるよりはましだから、仕方がないとは言えない。妻の身を労わり、わが身を労わり、共に人生晩年の日々はめぐっている。命の終焉まで残り日少なく、万感きわまりない歳月のめぐりである。だから、どんな春でも粗末にするのはもったいない。ネタなく、こんな文章を書いてしまい気恥ずかしい思いである。いや、気恥しいと言って、怯(ひる)むことはもったいない。雨模様の夜明けが訪れている。山の枝木の揺れは、まったくない。