掲示板

絵になる桜風景、だがしかし

4月3日(水曜日)。気象予報士の予報はズバリ当たり、きのう一日だけの好天だった。夜明けの空は、今にも雨が降り出しそうな曇り空である。ウグイスも出番を挫かれているのであろうか? エールは沙汰止みである。桜の花もきょうは、大空を仰いで(どうするべきか?)と、気迷っているはずである。私は短い文章を書いて、指先を擱くつもりでいる。私の場合は、こんな夜明けでは気分が晴れず、ずる休みである。きのうの私の行動もまた、妻をともなってズバリ予告どおりだった。当住宅地内のS医院への通院を終えると、近くの公園でしばし花見をした。ところが、この予告の行動に加えて二人は、最寄りのバス停からめぐって来たバスに乗った。バスは「大船(鎌倉市)行き」循環バスである。大船の街は、わが普段の買い物の街である。いつもはわが単独の買い物行動だけれど、きのうは妻が付き添った。帰りのバスでは、わが家最寄りの「半増坊バス停」で降りた。この先はわが家へ向かって一部、新興住宅地を開いたおり、大手デベロッパーが勝手にグリーンベルト(緑道)と名付けた狭い一本道がある。名に恥じてどうてことのない、両かたわらに植込みを成し、真ん中をコンクリートで固めた舗道にすぎない。そこには、何本かの里桜が立っている。それを眺める後背には、開発を免れた山に山桜が点在している。足を止めて眺めると、人工と野生のコラボレーション(協演)を成して桜の花が、絵になる風景を醸し出している。すでに桜見物は果たしていたけれど、二人は立ち止まり「絵になる桜風景」を眺めていた。こののちは一本道から外れて、わが家へ回る周回道路へ足を踏み入れた。突然、わが目の前に桜の花びらがコロコロと流れて来た。もちろん、数えきれるものではない。ところが、わが心中にはこんな思いが走った。(桜の花は、咲くかたわらに散るのだ!)。まさしく、「花(桜)のいのちは短りき」。両者、よく譬えられるけれど、必ずしも花(桜)のいのちと人の命は同然ではなく、人の命がはるかに長い。私は、切ない気持ちになり替わり、わが家へ着いた。腕を組む妻は、黙然と歩くことに必死だった。私には、同様の光景を見た妻の気持ちを問う勇気はなかった。あえて問えば妻は、「パパ。人の命も短いわよ」と、言ったかもしれない。短く書くつもりの文章は長くなった。短いのは花、とりわけ桜の花のいのちである。夜明けの曇り空は、雲行きが怪しくなっている。晴れの日も短く、わずかに一日だった。ウグイスの鳴き声を聞かない夜明けは、やはり物足りない。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

フリージアもアーマンディも素晴しく綺麗です☆☆
支柱が倒れたアーマンディには違和感はありませんよーー。

庭の花

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 今日は、天候も良くフリージァの良い香りが庭に漂っていました。アーマンディは先日の大風雨で支柱が倒れてしまい起こしたのですがなかなか元には戻らず一応は写真に撮ったのですがこれからどうなることやら。

通院と桜見物、とても大切な一日

4月2日(火曜日)。明々と朝日輝く夜明けが訪れている。このことでは気持ちのいい中春の朝である。鎌倉地方も桜の開花は出そろった。きのうの気象予報士の予報によれば、晴れ間はきょう一日限りで、あすから週末頃までは雨の日が多くぐずつくと言う。この予報を聞いた傍らの妻は、「パパ。あしたは近くの花見に行きましょうよ」と言った。私は素直に「そうだね。行くよ」と相槌を打った。ところが、そのあとすぐに私は、言葉を重ねた。「あしたは、S医院へふたりして行こう、と言っていたよ」「そうだったわね。雨が降る前にはそちらが大事ね」「雨降りの通院は嫌だね」「そうね。ちょうどいいわ。S医院へ行って、帰りに近くの公園の桜を見ればいいのよ」「そうだね。そうしよう」これまた私は、素直に相槌を打った。二人にとって通院は、最も大事な日常である。まさしく、「花より団子」をしのいで、生き延びるための切ない行動である。起き立てにあってきょうは、煮ても焼いても食えない文章を書いた。しかし、老夫婦の日常生活の一端を披露したものと思えば、芥子粒ほどの価値はある。もとより、「箸にも棒にもかからない」文章ではある。それでも、夫婦共に生きている証しにはなる。「春眠暁を覚えず」。慌てふためいて書いた。朝日輝くきょう一日は、とても大切な日である。私は明日以降の悪天候を気に病んでいる。学び舎では入学式たけなわの出会いの月のスタートにあっては、私は晴れの清々しい夜明けを願っているからである。ところが予報は、わが願いを挫いている。ここで文章を閉じることでは、このところの長い文章の罪償いにはなる。

「つらい、時の定め」

年度替わりのきょう4月1日は、切りよく月曜日からのスタートである。夜明け前にあっては、まもなく夜明けが訪れる。気象予報士の予報に狂いがなければ、雨風のない朝日輝く穏やかな夜明けであろう。夜明けの空は、そう願いたいものである。もとより、人間界および自然界共に、一寸先は闇の中である。とりわけ、天変地異に遭遇すれば人の世は、たちまち阿鼻叫喚をさらけ出す地獄絵を見ることとなる。別れの月3月から、出会いの月4月、へ替わった。おのずから、寝起きのわが心境も変わっている。しかし、必ずしも好転にありつけていないのは老齢のせいである。新年は、正月元旦に始まる。実社会の新年度は、きょうから始まる。初詣や雑煮餅を囲んでの家族団欒はないけれど、それらに似た厳かな年度初めの儀式は、実社会のあちこちで催される。学び舎であれば入学式、企業や役所であれば入社式や入庁式がある。個々人の出会いの互いの挨拶も、「初めまして、よろしく」などの言葉をともなって新鮮である。このところ身近なところで別れの光景を見たものには、テレビ映像を通しての卒業式光景がある。加えてきのう、NHKテレビを観ていると、キャスターの別れの挨拶が相次いだ。明けてきょうのテレビを観れば、新たなキャスターの挨拶が相次ぐであろう。これまたおのずから、見入るわが気分も新鮮になる。新年度になってもいっこうに様変わりしないのは、「裏金問題」を引き継ぐ政治(家)の舵取りである。これこそ旧態依然そのままであり、できれば旧(前)年度にけりをつけていてほしかった。与野党共通の政治(家)の体たらくぶりのさらけ出しである。桜の花は日本列島の地域それぞれに、開花と満開の喜びや楽しみを恵んで北上を続けている。人の営みはこの先、悲喜交々に新たな年度を移りゆく。きょうは、否応なく季節のめぐりを実感する月替わりである。残りの命を限る老いのわが身には、寂しさつのる月替わりでもある。満開の桜とて、すぐに葉桜模様になる。人間界および自然界共に、月替わりと季節のめぐりは、「つらい、時の定め」である。走り書きが速すぎて、まだ朝日は雲隠れである。それとも、予報の外れであろうか。天変地異さえなければ、どちらにも恨みつらみはない。

ウグイスは、わが援軍

3月31日(日曜日)。すでに、薄っすらと夜が明けている。風雨のない、のどかな夜明けである。さらに加えれば、寒気はまったく感じられず、心の和む夜明けである。ゆえに、わが心象は穏やかである。子どもの頃の目覚め時は、「早起き鳥」(庭の鶏)の声、柱時計の響き、それでも寝起きを渋っていると、「もう、起きらんか!」という、母の声が告げた。今や、どれこれもが、懐かしい思い出である。もちろん、叶わぬことだけれどできれば、再現を望みたくなる現在の心境である。きのうの文章の文尾においては一行、こう書いている。「桜の花に加えて、彩るウグイスの声の出番も間近である」。ところが、文章を終えて両耳に補聴器を嵌めて、閉めていた雨戸を開けると、山からウグイスの鳴き声がとどいた。失態をしでかした私は、そののちあえて、こんな文章を掲示板へ書いた。「文章を閉じて、雨戸を開けたら、もう、ウグイスは鳴いている」。これに懲りて、いや本当のところは文章を書きながらウグイスの声を聞きたくて、きょうから起き立てに補聴器を嵌めている。このことは、これまでの寝起きの習わしの大きな変化である。ウグイスの声には、朝、昼、夕方、すなわちわが日常生活にあっては、無償の大きなエール(声援歌)を賜っている。その中でも起き立てに聴くウグイスの調べは、一日のスタートの勇気づけには、この上ない果報である。表現を変えれば、寝起きにウグイスの鳴き声を聞かずにやり過ごすことは、銭失いのごとくもったいない。確かに、夜明け時のウグイスの声は、喉、声、慣らしの予行演習に似て、いまだいくらか頼りない。しかしそのぶん、昼間の勝ほこったようなふてぶてしさはなく、健気に鳴いてわが耳には心地良い響きがある。幸いなるかな! いまだトレーニング中の鳴き声が耳に聞こえている。寝起き、そして朝飯前に書くわが文章は、いつも似たり寄ったりで私自身、飽き飽きしている。挙句、(もう書けない、書きたくない)心境に苛(さいな)まれている。するとウグイスは、この心境を断ち切るわが援軍をになっている。桜の花とウグイスの声のコラボレーション(協奏)、さらには暖かい陽光がふりそそげば「春本番」、いや春は中春から晩春へ向かって行く。補聴器を嵌めてウグイスの声が聞けて、朝日輝く心地良い朝が訪れている。

もう、ウグイスは鳴いている。

文章を閉じて、雨戸を開けたら、もうウグイスは鳴いている。

「満開の春」の訪れ

3月30日(土曜日)、夜明け間近にある。きょうは長い文章は要なしと決め込んでいる。私日記風にこれらのことだけを書けば十分である。気象庁はきのう(3月29日・金曜日)、東京の桜の開花を発表した。降り続いていた雨と、残されていた雨雲は、時を追って遠のいて、からりと晴れた。つれて、わが憂鬱な気分は、たちまち晴れた。あまりのうれしさにわが気分は、はしゃぐ子どものよう(童心)になっていた。その証しには、掲示板に「東京で桜が開花」と書いた。ところが、童心返りはこれだけでは飽き足らず私は、雨が止んで晴れて高まる気分を伝えたくて、大沢さまへパソコンメールを送信した。それほどにわが気分は高揚していたのである。桜の開花宣言に合わせてきのうは、セ・パ両リーグ共に、今シーズンの開幕日だった。桜が開花し、同日に「東京ドーム」では、プロ野球が開幕した。首都東京には、いっぺんに「絵になる春」が訪れたのである。一方、ほぼ半年間楽しく観続けていたNHKテレビ朝のドラマ『ブギウギ』は、きのうで終了した。予期していたとはいえ、こちらにはロス気分に陥り、私はかぎりなく寂しさをおぼえていた。しかし、この気分をまずは、昼間に伝えられた東京における桜の開花宣言が和らげた。次には、プロ野球の開幕日が和らげた。夕方にあっては妻と共に私は、茶の間のテレビの前に陣取った。いや、5時30分きっかりにテレビを前にして二人は、相対に置いているソファーに座った。開幕日にあっては、セレモニーが行われる習わしがある。予定の試合開始は6時10分であり、その前に40分のセレモニーがあった。二人は、これにも見入ったのである。わがファンとするタイガースの開幕日の相手チームは、球界の長年の覇王・読売ジャイアンツだった。テレビ観戦はいつもワクワク気分になる。まして、開幕戦となれば私たちは、セレモニーからはじまり試合開始そして終了までを勢い込んで見入ったのである。ところが、試合自体は応援グッズを打ち鳴らす場面はほとんどなく、タイガースは0-4でジャイアンツに完敗した。ジャイアンツの指揮官は、昨年までの原監督に代わり阿部新監督が務めた。だから、阿部監督にすれば幸先のよい一勝のスタートだった。テレビ観戦を終えたわが戦評はこうだった。「今シーズンのジャイアンツは強い、タイガースは弱い」だった。だけど、きのうの私は、「満開の春」の訪れがあってか、タイガース敗戦後の気分はそんなに悪くはなかった。夜明けて朝日はいまだ雲隠れのままだけれど、雲間はのどかに明るく開き始めている。もはや、悪天候を嘆くことはない。欲張って望むものは、桜の花をたずさえて彩る百花斉放の春爛漫である。加えて、きょうの第2戦にタイガースがちょっぴりでも意地を示せば、それは望外の望みである。短くて十分の文章は、無駄に長くなってしまった。書き殴りの祟りである。桜の花に加えて、春を彩るウグイスの出番も間近である。

東京で桜が開花

気象庁は、今日(3月29日)に桜の開花を発表しました。ぐずついていた雨が上がり晴れて、桜の季節が訪れました。つれて、鬱陶しかったわが気分も晴れて、満開です。