ウグイスは、わが援軍

3月31日(日曜日)。すでに、薄っすらと夜が明けている。風雨のない、のどかな夜明けである。さらに加えれば、寒気はまったく感じられず、心の和む夜明けである。ゆえに、わが心象は穏やかである。子どもの頃の目覚め時は、「早起き鳥」(庭の鶏)の声、柱時計の響き、それでも寝起きを渋っていると、「もう、起きらんか!」という、母の声が告げた。今や、どれこれもが、懐かしい思い出である。もちろん、叶わぬことだけれどできれば、再現を望みたくなる現在の心境である。きのうの文章の文尾においては一行、こう書いている。「桜の花に加えて、彩るウグイスの声の出番も間近である」。ところが、文章を終えて両耳に補聴器を嵌めて、閉めていた雨戸を開けると、山からウグイスの鳴き声がとどいた。失態をしでかした私は、そののちあえて、こんな文章を掲示板へ書いた。「文章を閉じて、雨戸を開けたら、もう、ウグイスは鳴いている」。これに懲りて、いや本当のところは文章を書きながらウグイスの声を聞きたくて、きょうから起き立てに補聴器を嵌めている。このことは、これまでの寝起きの習わしの大きな変化である。ウグイスの声には、朝、昼、夕方、すなわちわが日常生活にあっては、無償の大きなエール(声援歌)を賜っている。その中でも起き立てに聴くウグイスの調べは、一日のスタートの勇気づけには、この上ない果報である。表現を変えれば、寝起きにウグイスの鳴き声を聞かずにやり過ごすことは、銭失いのごとくもったいない。確かに、夜明け時のウグイスの声は、喉、声、慣らしの予行演習に似て、いまだいくらか頼りない。しかしそのぶん、昼間の勝ほこったようなふてぶてしさはなく、健気に鳴いてわが耳には心地良い響きがある。幸いなるかな! いまだトレーニング中の鳴き声が耳に聞こえている。寝起き、そして朝飯前に書くわが文章は、いつも似たり寄ったりで私自身、飽き飽きしている。挙句、(もう書けない、書きたくない)心境に苛(さいな)まれている。するとウグイスは、この心境を断ち切るわが援軍をになっている。桜の花とウグイスの声のコラボレーション(協奏)、さらには暖かい陽光がふりそそげば「春本番」、いや春は中春から晩春へ向かって行く。補聴器を嵌めてウグイスの声が聞けて、朝日輝く心地良い朝が訪れている。