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すべてにままならない、人生の終末期

語尾に「難民」を付ければ、実際に難民として苦しむ人たちにたいして無礼千万である。だからこの場合は、その言葉を控えたい。すると、これに代わる適当な言葉探しを始めている。ふと浮かんでいるもので、最も厳しいものには不可能がある。やや緩いものでは、不便あるいはままならないという、言葉が浮かんでいる。このため、語尾に不便を当ててみる。加齢にあって総じて困るのは、日常生活における家事不便である。一つ一つの事柄では、買い物不便、通院不便、草取り不便、そして日課とする分別ごみ出し不便、さらには道路の掃除不便などがある。これらに加えて現在は、新型コロナウイルスへの感染を恐れて、外出行動を控えている。すなわち、外出不便である。やはり、難民に比べて、不便ではしっくりこないところがある。だとしたら、もっと適当な言葉探しをしなければならない。すると、これに尽きる。すなわち、年をとって、すべてのことがままならくなっている。加齢とは人間に付き纏う、「悪の権化(ごんげ)」と、言えそうである。もちろん、私にはそれを跳ね返す気力や便法もなく、甘んじて泣き寝入りの状態である。人生の終末期になって私は、都会の僻地にしか、終(つい)の棲家(すみか)を買い求めざるを得なかった、わが甲斐性無しの祟(たた)りに遭遇している。確かに、いまさら嘆いてもどうなることでもない。それでも嘆かざるを得ないのは、日に日に現れるわが甲斐性無しのせいである。きょうの私には、妻の通院行動にたいする引率および介助の役割がある。行き先は、最寄りすなわち住宅地内にあるS医院である。年老いたわが足でも歩いて、片道十五分程度である。ところが、リハビリ中の妻の足取りでは、これがままならないのである。通院不便、加齢のせいにはできない、わが甲斐性無しの証しである。心地良い夏の夜明けにあって私は、気分の滅入りをこうむっている。命、終末期の人生行路は、悉(ことごと)く不便、すなわちままならい暗夜行路である。

八月は気分の重たい月

八月七日(日曜日)、夜明けの空は、朝日の見えない曇り空である。このところは、こんな夏の夜明けが続いている。この二日は昼間でも、真夏とは思えない寒気を感じていた。この先は、真夏や盛夏という言葉に逆らい、「生煮えの夏」になるのであろうか。もちろん、季節狂いは歓迎できない。しかし、いくらか望むところはある。道路を掃いていると、日増しに落ち葉が増えている。真夏にあっては炎天下、たぶん木の葉も生きづらいのであろう。木の葉は日照りに耐えきれずに枯れて、落ち葉と名を変えて、掃いている路上に野垂れ死にしている。憐憫の情が擡(もた)げてくる。いくつかを指先で拾ってみる。すると、枯葉とは言えないほどに瑞々しい生葉(なまは)もある。また、色のすがれた病葉(わくらば)もある。若死に病死、「まだ、生きたい!」と叫ぶも、叶わぬ人間模様の写し絵さながらである。だとしたら「鬼の目にも涙あり」、一瞬、私は掃く手を緩めたくなる。毎年八月、わが気分は重たい月である。それは今年で言えば七十七年前(昭和二十年・一九四五年)の日本の国における出来事、すなわち「広島、原爆の日」(六日)、「長崎、原爆の日」(九日)、そして「日本国、終戦(敗戦)の日」(十五日)が想起されてくるゆえんである。わが異母兄の一人は、フィリピン・レイテ島沖の戦場で命を絶った。わが次姉は、主治医に「戦争さえなければ、死ぬことはなかった」と、病床周りの家族に告げられて、薬剤が手に入らずに、若い命(十八歳)を盲腸炎で断った。これらに加えて、昨年の八月二十二日には、ふるさとの長兄がこの世から姿を消した。その妻(義姉)は、それより前の八月一日に亡くなった。私は甦る日本の国の出来事と、このところのわが身にまつわるつらい出来事を重ねて、きょうの文章を閉じることとする。私は為政者の定型の挨拶言葉、すなわち「哀悼の誠を捧げる」は白々しく、聞き飽きている。実際には言葉にできないほど、つらく悲しい出来事である。再び言う。私にとっての八月は、気分の重たい月である。そうであればわが命も兄姉に重ねて、できれば八月に尽きたい。なおできれば、枯れた木の葉にように、チラチラと静かに舞って…、野垂れ死にしたい。

前田さんへ「広島、原爆の日」の感想です

前田さん、昨日は御返事の御投稿、どうもありがとうございました。

ぼくも前田さんと同じく、悲惨な状況は、そののちの学びで知りました。
当時の新聞の画像を見てみますと、原子爆弾ではなく、「新型爆弾」と記載された見出しがありました。
それから、旧アメリカ軍は、原爆投下前に原爆に似た形の爆弾(原爆よりはるかに威力の弱い爆弾だったようです)を投下して、原爆製造のための実験をしていたようですね。

「広島、原爆の日」

令和4年(2022年)8月6日(土曜日)。77年前のこの日、この時間、(昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分、広島市において、原爆が投下された。風化してはならず、忘れてはいけない、悲しい記憶である。この時の私は、生誕地・熊本県の片田舎において、5歳と1っか月だった。それゆえに私は、原爆投下の悲惨な状況は、まったく知るよしない。だから、悲惨な状況はそののちの学びで知るだけである。きょうは、いつもの文章は休みを決め込んでいる。しかし、表題を記して、学んだ記憶を新たにしている。これくらいは、生きている者の哀しい務めだからである。

高橋弘樹様へ、感謝!

早速の「大、大、大、エール」を賜り、御礼申し上げます。
雷に肝を潰しました。
停電になれば、パソコントラブルに見舞われてお手上げです。
停電は逃れました。ほんとに、よかったです。

わが身に漂う閉塞感

八月五日(金曜日)。いまだ真っ暗い夜明け前、二度寝にありつけず起き出してきて、書くまでもないことを書き出している。わが文章は、「書いて、読んで」、気分の滅入るものばかりである。書けば、わが現在の生き様を映して、おのずからなさけない文章になる。だとしたら、書かないほうがベターである。もとより、私自身が知りすぎていることではある。だから心中では、(もう、書かない。これで、おしまい!)と、呪文(じゅもん)を唱えている。「雉(きじ」も鳴かずば撃たれまい」。こんな成句を浮かべている。すなわち書かなければ、人様にたいし恥をかくことも、私自身の煩悩(ぼんのう)をさらけ出すこともない。私とて、楽しく愉快な文章に飢えている。ところが、実際には真逆(まぎゃく)な文章を書いている。もとより、わが小器とお里の知れるところである。この誘因を成すのは何だろうか? と、あえて心中の答案用紙に解答のない自問を試みている。すると、即そして総じて浮かぶのは、わが人生の終末期に漂う閉塞感である。こうなるとすべてが始末に悪く、もはや展望への望みはない。閉塞感は、現下の社会事情と目下の個人事情からもたらされてくる。言うなればわが周囲事情のすべてであり、もちろん個人事情さえ自力ではとうてい解決の糸口さえありえない。社会事情だけに言及すれば、主たる閉塞感の誘因はこれらである。ひとつは、新型コロナウイルスの終息に目途が立たないことである。そしてひとつは、世界の国々が常にハラハラ状態にあることである。さらにひとつは、デジタル社会に身を置くことである。これらは、私自身ではまったく手に負えない難題である。閉塞感つのる個人事情の多くは、私自身のみならず身内・縁者の加齢からもたらせている。これまた、私自身ではにっちもさっちもいかない難題である。結局私は、まったく抗(あらが)えないことにじたばたして、残り短い命をみずから縮めている。自虐精神は、わが「身から出た錆」とはいえ、まったくなさけない。私はこんな馬鹿げたことを十五年ものの長い間、書いている。だから、とうに書き納めどきにきていると自覚し、そして飽き飽きしながら書いている。だから自分自身、楽しく愉快な文章にはありつけない。まして人様の場合は、況(いわん)や! である。「身も蓋もない」、もっぱら空き時間潰しの文章を書いてしまった。だから、現在の心中の呪文は、(くわばら、くわばら!)である。今にも雨が降りそうな夜明けである。心中の雨は、土砂降りである。いたずら書きのごとく長々と書いて、様々な恥と煩悩をさらしてしまった。悔いても、「後の祭り」である。

♪前田さん、良かったですね!!

こちらは、雷雨にもなりませんでしたが、鎌倉は、雷雨が去って、停電にもならず、良かったですねーー♪♪♪♪♪♪♪
さわやかな気分の前田さんへさらなる大大大エネルギー&パワーを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

うれしいです

雷は停電を見舞わず、空の涯に消えました。穏やかな夏の朝に戻りました。雨も去って、夕立の後のようなさわやかな気分です。

雷雨

八月四日(木曜日)、雷雨、雷鳴、雷轟、稲光の夜。停電をを恐れて、パソコンの電源を落としています。それゆえ、スマホでは指先不自由のために休みます。

屍(しかばね)の戯言(ざれごと)

ブログの文章は炎上やバッシングを避けるため、ネタに自己制限をかけてきました。それゆえ、毎日似たよう文章の繰り返しとなり、自分自身、飽き飽き気分で書いてきました。おのずから、義理や好意で読んでくださっていた人たちは、しだいに遠のいてゆきました。いくら謝っても謝りきれない、私自身がしでかした悔恨です。こんななかにあって、今なお読み続けてくださる人たちがいます。これらの人たちには逆に、いくら謝意をいだいても、いだきききれるものではない、わが身に余る果報です。突如、こんなことを書いているのは、「ひぐらしの記」の終焉の灯火(ともしび)が、明滅しているせいかもしれません。「ひぐらしの記」の執筆を含めて人生行路は、気の持ちようすなわちモチベーション(心意気)の高低に影響を受けます。私の場合、モチベーションが高いときには、生きる喜びにあふれています。ところが逆に、モチベーションが低いときには、たちまち「生きる屍(しかばね)」状態へと沈んでいます。言うなれば人生行路は、モチベーションを基準にして、二者択一すなわちどっちかへ転ぶ状態になりがちです。こんな遠回しの表現は止めて、現在のわがモチベーションは低く、ずばり生きる屍状態です。瞬時のエンストであれば、再駆動にありつけます。ところが、装置全体が壊れていたら再駆動は望めず、ここで万事休すです。「ひぐらしの記」を書く装置とは、心模様すなわちモチベーションとして現れる精神状態です。モチベーションの有無や高低を測る、たとえば体温計のような測定器はありません。もちろん、解熱剤のような薬剤もなく、それだけモチベーションの低下は、始末に負えないほどの難物です。これにたいする処方箋は、まわりまわってみずから精神力にすがる、克己心や自己発奮あるいは鼓舞などしかありません。「言うは易く行うは難し」。現在の私は、モチベーションの低下に見舞われています。夏の暑さのせいではなく、生来のひ弱な精神力のせいです。単なるエンストなのか、それとも装置全体(精神)の壊れのせいなのか。ハード(身体)は、年齢(八十二歳)並みを超えて、正常に動いています。ところがソフト(精神)は、年齢並みから外れて老い耄(ぼ)れ、いや病に罹っているのかもしれません。幸いなるかな! 自己診断では、病はまったく認知していません。しかし、人様診断ではどうかな? と、思っています。この文章に似た文章は、近いところで書きました。だから、二番煎じの文章です。こんなことではゆくゆくは? いやたちまち、読者ゼロ人が懸念されます。すでに精神が病に罹っているような、冴えない文章を書きました。薬剤要らずの効果覿面の処方箋は、心地良い夏の朝にすがっています。