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関東地方と北陸地方に、「春一番」が吹いた

2月16日(金曜日)、あえて現在のデジタル時刻を記そう(2:36)。真夜中を過ぎた頃にあって寒気はまったく感じず、人工の熱源は要なしである。起き立てにあって私は、いつものように冬防寒重装備(着衣)を身に纏っている。ところが暑苦しくて、重ね着の厚手の防寒コートだけは、脱ぎ捨てたくなっている。日本の国の気象の特徴は、明確に変わる四季(春夏秋冬)と言われている。私の場合、梅雨入りには夏近し、梅雨明けには夏の訪れを感じる。台風一号の発生を伝えるニュースや集く虫の音には、秋の訪れを感じる。そして万民は、木枯らし一号が吹けば寒々しい冬の訪れを感じる。小春日和には束の間の暖かさを感じる。春一番には、風の冷たさに身震いしながらも春の訪れを感じる。四季の変わり目にあっては、ぼうっとしていても感ずる、それぞれに特有のシグナル(徴)がある。私は冬の訪れを告げる「木枯らし一号」は大嫌いだ。一方、春の訪れを告げる「春一番」は、吹きつける風の冷たさに一瞬身を竦めても大好きだ。相対する両者は、わが心模様をまったく異にする、季節変わりの徴(しるし)である。きのう(2月15日・木曜日)、気象庁は関東地方と北陸地方に「春一番が吹いた」と、告げた。いよいよ、待ったなしに「春」が来たのである。しかしながら北陸地方、なかでも震災被災地および被災者・避難者の人たちは、どんな生活状態や心境で、春一番を迎えているであろうか。遠吠えながらひたすら、わが案ずるところである。いの一番には日本海おろしの風の弱まりと、雪の日が遠ざかることを願っている。これまた知りすぎているとはいえ、私は机上に置く電子辞書を開いた。【春一番】「立春後、はじめて吹く強い南寄りの風。天気予報では、立春から春分までの間に広い範囲ではじめて吹く、暖かく強い南寄りの風をいう」。わが生涯学習は死ぬまで、電子辞書すがりである。暖かい春の訪れが、わが生涯学習を後押ししてくれたらと願っている。だけど、そうは問屋が卸さない。しかしながら春一番が吹いて、本格的な春へ向かい、日に日に暖かくなることは願ったり叶ったりである。さらに欲深く願いを重ねれば、天変地異なき穏やかな春の訪れを望んでいる。寒気が緩んでいて、この先を書きたい気分はある。けれど、書けばだらだら文となる。ゆえに、ここでおしまいである(3:49)。寒気が緩んだ夜は、寝床にとんぼ返りはせず、机上に頬杖をついて、しばし愉しみたい心地である。春一番のおかげである。

来年は他の人をさがします。

 大沢さん、お言葉だけで満足です。来年は、あきちゃん、かつちゅん、ひろちゃん、きみちゃんに電話してみます。

やっぱり春が好き

 古閑さん、かわいらしい花の投稿ありがとうございます。先日実家に行ったとき、フキノトウが顔を出していました。朝の朝食のお味噌汁に浮かべていただきました。春が待ち遠しいです。

私の言い訳のぼやき

 ふうたろうさんの憤りに一言申し上げます。
私は今日までバレンタインのチョコレートを配ったことは一度も無かったことに気付かされました。そして、ふうたろうさんの投稿で、ふと心に浮かんだことは、「送ってみようかな」でしたが、催促されてから実行するのは野暮だなあと止めました。ぶっちゃけた話、ネットで購入しプレゼントしようとしたのですが、もしかして支払いが手違いになってふうたろうさんに請求がされたらと心配になって止めました。
チョコレートは郵送でも心配なので送る決心がつきませんでした。それに、義理堅いふうたろうさんですから、私のお遊びに付き合って、お返しがあったら申し訳ないので、やっぱり気持ちだけプレゼントします。
 

世情とわが事情

2月15日(木曜日)。起きて(3:57)、パソコンを起ち上げる前にあって、こんな簡易な語句さえ電子辞書を開いた。世相:世の中のありさま。生きて、世の中に存在するかぎりは世相まみれであり、ゆえに現下の世相を浮かべないことは一刻さえない。すると、真っ先に浮かんでいるのは格差社会の高進である。実際のところは、インフレ(物価上昇)の高まり現象である。ここでいう格差社会とは、お金を持つ者、持たざる者のとの差、すなわち日常の生活水準の差である。より具体的には、お金を持たない者、お金にありつけない者の日常生活の苦しみである。現下の日本政府の舵取りは、長年続いていているデフレ(物価下落)から脱却である。このための施策は、インフレ傾向(2パーセント程度)を目指していると言う。そして現在は、ようやくこの施策の達成が見込めるところへきていると言う。反面、物価上昇による齟齬をきたさないために政府が躍起となっている施策の一つはそれに見合う、いやそれを超える給料や賃金の上昇である。ところが半面、この施策は格差が生じる元凶ともなっている。すなわちそれは、給料や賃金にありつけない人たちの置き去りである。職業や仕事を持たずに、収入というお金にありつけない私も、この範疇に入る。このところ、株価がバブル以来(34年ぶり)の高値を更新したと囃し立てられている。まさしく、株式(金銭)を持つ者と、持たない者の格差の現出である。新型コロナウイルス蔓延の時期にあっては仕方なく自粛を強いられていたけれど目下、堰が切れたごとくに海外および国内旅行への復帰が取りざたされている。これまたお金持ち(富裕層)に限られて、お金を持たざる者(貧困層)は、おのずから置いてきぼりにあっている。きのうのNHKテレビニュースは、医療機関における初診料および再診料の値上げを報じていた。世情に疎い私は、(なんで、初診料や再診料が要るんだ!)と、腑に落ちない思いだった。こんなことを長々とそして一々書いては、わが気分が滅入るばかりである。だから、わが柄でもないことはここで書き止めである。きのうの聖バレンタインデーにあっての私は、わが身銭を切って買ったクッキーを自分の口に鱈腹入れた。義理チョコにさえありつけないわが身の悲しさは、まぼろし仕立ての女性の愛にさずかり、自前でもクッキーは美味しかった。いや、美味はともかく、わが気分はすこぶる和んだ。そして、世知辛い世相(世情)を生き抜くには、たまにはこんな気違いじみた自演も必要悪だ! と、悟った。愛のない世相は、真っ平御免である。お金のように形はないけれど、愛(愛情や情念)こそ、人間の生きる価値の本源と言えそうである。ところが今の私には、現(うつつ)の他人様からさずかる愛はなく、自演でまぼろしの愛を紡ぐより便法はない。それにはやはり、一抹の寂しさはある。それでも、まぼろし仕立ての女性の姿は、安価なクッキーにまぼろしの美味を加えていた。これ以上書けばいたずら書きは、エンドレスになりそうである。夜明けまではまだたっぷりと時間がある(4:49)。だから、ここで止めなければインフレのごとくに、わが妄想は高進しそうである。夜長に向かい妄想は、日々更新を続けている。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

古閑さんのおっしゃる通り、本当に『春の気配』が感じられますねーーー♪♪♪

庭の花

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 我が家の庭は、まだ冬枯れの状態であるがそれでもわずかに春の気配が感じられ、小さな花が咲いています。

チョコレートが欲しい。

 世の女どもは、俺が若い時も、今でも、俺をすり抜けて、大した男でもないヤツに ”チョコ” を渡しやがる。俺の好は、スーパーで売っている・・・100円の森永か?・・・98円の明治か?・・・のホワイトチョコである。誰かくれないかな!

まぼろしの女性のささやき

 前田さん、今日はクッキーの味わい楽しみですね。まぼろしの女性は耳元でどんな言葉を囁いてくれるでしょうか。

聖バレンタインデー

2月14日(水曜日)。机上の卓上カレンダーには、「聖バレンタインデー」という添え書きがある。現在のデジタル時刻は、4:28と刻まれている。あえて時刻を記したのはこの時、わが身体にはまったく寒気を感じていないからである。季節は早やてまわしに、「春本番」を迎えている。その表れで気温が緩んでいる。この証しは、わが体感だけではない。いや、きのうの気象予報士は、天気図に指示棒を這わせて、予報として伝えていた。いよいよ、春が近づいた。いや、「春が来た」と、言っていいのかもしれない。ところがそれを素直に喜べないのは、人生の晩年を生きる者(私)の切なさである。すなわちそれは、季節めぐりの速さ(感)につきまとう、老齢の身ゆえの哀情(哀感)である。脳髄凡庸の私は、知り過ぎているごく些細な語句や語彙であっても、あえて机上に置く電子辞書にすがっている。就寝時にあっては、電子辞書は枕元へ移る。ところが、電子辞書の役割もしだいに、スマホの機能に脅かされつつある。それでもまだ、電子辞書にすがるのは、これまでのわが習性なのであろう。私はパソコンを起ち上げる前に電子辞書を開いた。そしてだれもが知る、相対する二つの言葉を見出し語にして、意味調べを試みた。他愛:自己の福利を犠牲にして他人を愛すること。利他。自愛:自らその身を大切にすること(多くは手紙文に使う)。妻の場合はまったくの他人ではないから、「他愛」の語句は適当でない。すると、現在の私には、他愛の対象者はいない。ゆえにきのうの買い物にあっての私は、心中に他愛すべき「まぼろしの女性」を浮かべた。そして、身銭を切って、チョコレートまぶしのビスケット(クッキー)買って来た。私はクッキーが大好きである。しかし、きのうは食べるのを我慢して、きょうの聖バレンタインデーに持ち越している。こんな気違いじみた行為(演技)は、もちろん今では叶わないために、あえて演じた切ない余興にすぎない。きょうは、まぼろし仕立ての女性からもらったクッキーを、際限なく鱈腹たべる日である。そして私は、せつなく「自愛」を増幅させるであろう。こんな文章、書かなきゃよかった。だけどなんだか、心身が和んでいる。聖バレンタインデーに合わせて、「春が来た」ためだろうか。いやいや、気違いじみた余興のせいと言えそうである。妻の介助にあっては、犠牲とは言えない。なぜなら、いつなんどき逆転し、こんどは妻に犠牲を強いるかもしれない老耄(ろうもう)のわが身である。ふり仮名は、「おいぼれ」のほうがズキンとわが身に沁みる。約一時間の殴り書きには、とんでもない文章を書いてしまった。「生きとし生けるもの」にあって人間の価値は、他愛および自愛、すなわち愛情を持てることだろう。聖バレンタインデーの夜明けは、まだまだ先である。