聖バレンタインデー

2月14日(水曜日)。机上の卓上カレンダーには、「聖バレンタインデー」という添え書きがある。現在のデジタル時刻は、4:28と刻まれている。あえて時刻を記したのはこの時、わが身体にはまったく寒気を感じていないからである。季節は早やてまわしに、「春本番」を迎えている。その表れで気温が緩んでいる。この証しは、わが体感だけではない。いや、きのうの気象予報士は、天気図に指示棒を這わせて、予報として伝えていた。いよいよ、春が近づいた。いや、「春が来た」と、言っていいのかもしれない。ところがそれを素直に喜べないのは、人生の晩年を生きる者(私)の切なさである。すなわちそれは、季節めぐりの速さ(感)につきまとう、老齢の身ゆえの哀情(哀感)である。脳髄凡庸の私は、知り過ぎているごく些細な語句や語彙であっても、あえて机上に置く電子辞書にすがっている。就寝時にあっては、電子辞書は枕元へ移る。ところが、電子辞書の役割もしだいに、スマホの機能に脅かされつつある。それでもまだ、電子辞書にすがるのは、これまでのわが習性なのであろう。私はパソコンを起ち上げる前に電子辞書を開いた。そしてだれもが知る、相対する二つの言葉を見出し語にして、意味調べを試みた。他愛:自己の福利を犠牲にして他人を愛すること。利他。自愛:自らその身を大切にすること(多くは手紙文に使う)。妻の場合はまったくの他人ではないから、「他愛」の語句は適当でない。すると、現在の私には、他愛の対象者はいない。ゆえにきのうの買い物にあっての私は、心中に他愛すべき「まぼろしの女性」を浮かべた。そして、身銭を切って、チョコレートまぶしのビスケット(クッキー)買って来た。私はクッキーが大好きである。しかし、きのうは食べるのを我慢して、きょうの聖バレンタインデーに持ち越している。こんな気違いじみた行為(演技)は、もちろん今では叶わないために、あえて演じた切ない余興にすぎない。きょうは、まぼろし仕立ての女性からもらったクッキーを、際限なく鱈腹たべる日である。そして私は、せつなく「自愛」を増幅させるであろう。こんな文章、書かなきゃよかった。だけどなんだか、心身が和んでいる。聖バレンタインデーに合わせて、「春が来た」ためだろうか。いやいや、気違いじみた余興のせいと言えそうである。妻の介助にあっては、犠牲とは言えない。なぜなら、いつなんどき逆転し、こんどは妻に犠牲を強いるかもしれない老耄(ろうもう)のわが身である。ふり仮名は、「おいぼれ」のほうがズキンとわが身に沁みる。約一時間の殴り書きには、とんでもない文章を書いてしまった。「生きとし生けるもの」にあって人間の価値は、他愛および自愛、すなわち愛情を持てることだろう。聖バレンタインデーの夜明けは、まだまだ先である。