
坂本弘司撮影 11月23日(土)祝日、友人と紅葉を見に、長瀞へ行ってきました。 12月1日(日曜日)。いよいよ、ことしの最終月を迎えている。壁時計の針は、私の切ない心情などにはお構いなく、みずからのペースで正確に時を刻んでいる。起き立ての私は、時のめぐりの速さに脅かされて、「ああ無常、ああ無情」という、二つの切ない心境の抱き合わせをこうむっている。人工の時計のみならず自然界は、当月に入った「冬至」(12月21日・土曜日)へ向かって、季節相応にこれまた正確に夜長の時を刻んでいる。「ひぐらしの記」を書く私にとっては、ぼうーとして起き出すことは許されない。文章の明確なネタにはならずとも、私はそれに近いものを浮かべて、起き出してこなければならない。このことは、生来凡愚の私にとっては「雲を掴むほどに困難」であり、とても厄介なことである。挙句、起き出すたびに遣る瀬無く、わが心中には(もう潮時、潮時…)と、半ばお助けを乞う、呪文(じゅもん)が渦巻いている。これすなわち、毎日めぐってくる起き立て「時」のわが心境である。ところがきょうは、ことしの最終月への月替わりにあって、この心境はいっそう弥増(いやま)している。叫び喚(わめ)いてもどうなることでもないことに、悶え足掻くのはわが小器ゆえである。きょうの起き立てのわが心中には、こんなことを浮かべていた。もとより文章のネタにはならず、まるで孑孑(ぼうふら)のようにふらふらと蠢(うごめ)いて、浮かんでいた。現在のわが身は、日本社会に貢献する労働は皆無である。いや、実際にはお邪魔虫となり、私は様々な日本社会の支えを享受しながら生き長らえている。一方、私の家庭内労働は、二人すなわち老老家庭の現状に特化している。それらは主に二つである。一つは街中・大船(鎌倉市)への、往復定期路線バスを利用しての買い物行動である。そして一つは、妻の生活にたいする支援である。こちらにあっては、妻の主婦業への支援がある。しかし、こちらはあまり役立たず、足手まといのところがある。そして一つには、私がいなければにっちもさっちもいかず、妻の生存自体が危ぶまれるものがある。それはわが買い物行動をはるかに超えて、ずばり妻が生き延びるための支援である。たまの「髪カット」や「昼カラオケ」、はたまた「たまには、外食でもする? 何か食べたいのがあれば、行くよ…」。こんなことなど、子どものお使いほどの番外編である。これらを撥ね退けてまさしく主要を為すのは、妻の生存を支えるための病医院へのわが引率行動である。かつての私たちには、この行動はまったくの用無しだった。ところが現在は、病院通いは妻自身にも重荷としてふりかかり、わが生活にも影響をもたらしている。しかしながらこのことは相身互い身であり、たまたまわが家の生活における現在進行形の現象にすぎない。いわゆる、いつ咄嗟に逆転し私にふりかかるかもしれない、心許ないものである。なぜなら世の中にあっては、夫婦にあっては一方の配偶者(夫)の命が早切れにある。このことをわが胸に仕舞い込んで私は、妻との外出のおりには文字どおり、率先行動役を務めているのである。生存の三要素、すなわち「衣食住」にあって現在は、それらを上回り夫婦共に医療費になけなしの金をはたいている。もちろん、買い出し時における、「食のコスト」の値上がりには手を焼いている。懲りず何度も書いているけれど、生きること(生存活動)は、確かに人生の一大大事業である。余生縮まる中にあって、その中に楽しみを見つけることもまた、限られた命の為す大事業である。この危ぶまれる事業を助けるのは、天変地異さえなければやはり、自然界の恵みである。師走入りの夜明けの空は、新たな地球に住むかのような気分にもなっている、かぎりなく胸の透く日本晴れである。妻は元気に階下で目覚めているであろうか。わが家のきょうの日暮らしの始まり時である。 高橋さん、作品を読んでとても丁寧なご感想をお寄せいただき、ありがとうございました。 今回のたまごさんの作品は、ショートショートではなく、幻想小説かな、と思いました。 大沢先生、さっそくご感想をお寄せいただき、ありがとうございます。 たまごさん、ご投稿ありがとうございます。 前田様、作品を読んでいただき、ありがとうございます。 11月30日、現在の時刻は4時あたりです。頻尿によるトイレ起きを繰り返し、眠れない夜長をこうむっています。眠りたくても、眠れないのです。極めて厄介です。この文章は寝床に寝そべりながら、スマホで書いています。起き出して、パソコンへ向かえばたっぷりと執筆の時間があります。しかし、幸いにも朦朧頭と眠気眼で書くことを免れています。たまごさまご投稿第二作品『河童と白猫』を拝読いたしました。読後感は極めて秀逸です。ただ、私には作品の批評はできません。そちらは大沢さまにおまかせです。私ができることは身勝手にも、自分自身の疲れとりと、邪魔をしないことです。秀逸な作品のご投稿に授かり、同士として感謝申し上げます。共に、がんばりましょう。
長瀞行
長瀞へは午後2時頃到着し、4時45分の電車で帰ってきたので、それほど長時間過ごせなかったのですが、とても楽しい時間でした。
「きそば むらた」で、ざるそばとこの店おすすめの山芋揚げを食べました。そばは硬めで歯ごたえがあり、山芋揚げはお餅の磯辺焼きにも少し似ていると感じる食感でした。
その後、岩畳で荒川沿いを散策し、紅葉を眺めました。
残念ながら、紅葉は思ったほど色づいてはいませんでしたが、やはり自然の中にいると空気が澄んでいて、とても癒されました。
帰りはお土産屋さんに立ち寄り、お酒やら眼茶やらつい買い過ぎてしまいました。買い過ぎになるので我慢しましたが、売られていたご飯のお供はどれもとても美味しそうで、次回行く機会があれば、ぜひ買いたいと思いました。
写真も添付したかったのですが、サイズが大きすぎるらしく、うまく添付できませんでした。
岩畳からの紅葉を、ぜひご覧いただきたかったので、残念です。こころ急く、師走入り
高橋さん、ありがとうございます
小説は読み手と書き手の協同作業である、という言葉をどこかで耳にしたような記憶がありますが、今回、高橋さんにたまごのこの作品は幻想小説である、と読みを膨らませていただいたおかげで、まさにこのことを体感できたような喜びを感じております。
修業中の身である私にとりまして、ご感想をいただくことは、自分の気づかなかった点に気づかせていただく貴重な機会となっております。
次回作を書く上での励みになります。
ありがとうございました。
長瀞行きルポルタージュ。
また改めて投稿させていただきますね。☆たまごさんへ☆『河童と白猫』☆の感想です☆
最初は、河童の場面と白猫の場面は、別次元かと思いましたが、ラストは交流しますので、同次元で理解しました。
小説は、基本的には人間を描くものですが、今回は幻想小説ですので、あえて人間ではない河童と白猫を登場させて、”人間同様の心の温かさ”を訴えるあたりが素晴しいと思いました☆☆
あくまで、ぼくの主観での感想ですので、違っていましたら、申し訳ございません。
それから、河童と白猫の森の中の場面は、ぼく好みの描写でした。
次回作も楽しみにしております☆☆☆
あと、☆『長瀞行きルポルタージュ』☆の御投稿も最大限希望しております☆大沢先生、ありがとうございます
大沢先生にお言葉をいただくと、今後も書く力が湧いてくるような気がしてとてもうれしく思います。
引き続き精進いたします。
ありがとうございました。思いやる心
人間界もこうありたいですね。冗長でないところがいいですね。さりげない表現の中に深い思いが詰まっています。読者に読み取る余地を残している表現力が見事だと思いました。前田様、ありがとうございます
私も、私ごときが前田様のご投稿について、感想を述べるのはおこがましいのではないかとの思いがあり、感想の投稿は控えさせていただいておりましたが、前田様が私の作品を読んでご投稿くださっているのに、私はそうしないということが、心に引っかかっておりました。
なので、私ごときでは前田様のご意図は読み取れていないとは思いますが、一言だけ述べさせていただきます。
前田様の作品のタイトルは「ひぐらしの記」でございますね。
直木賞を受賞した葉室麟の時代小説「蜩の記」から取られたものと推察いたしました。
そう思うと、前田様のご心境や生き方などが感じられるような気がいたしました。
あくまで、私の主観ですので、間違えていたら申し訳ございません。
前田様のご親切、感謝いたします。きようは、書きません


