掲示板

 

ありがとうございます。

 大沢さん、いつも身に余る花の感想をいただきありがとうございます。

古閑さんちのお庭

 イルミネーションが輝くようになった冬の季節にあって、やはり自然のお花は心が和みます。古閑さんちのお庭は、まだまだ元気に花々が目も心も楽しませてくれます。古閑さん、奥様ありがとうございます。

季節は、初冬の「落ち葉しぐれ」

11月29日(金曜日)。三日続いて、ほぼ定時(5時)の起き出しにある。それゆえに執筆時間に焦りや寝とぼけはなく、淡々と指先でキーを叩いている。夜長の季節にあっては、寝床に寝そべりながらいろんな瞑想に耽るところがある。しかしながらそれらの多くは、やたらめったらと迷想まみれである。きのうの昼間にあっては、私は似非(えせ)の茶の間のソファに背もたれながら、窓ガラスを通して外の風景を眺めていた。主(あるじ)を失くした空き地の植栽には一本のイロハモミジと、黄みを帯びた灌木(かんぼく)が雑然と初冬の美的風景を醸していた。この風景に輪をかけて、「落ち葉時雨」が山の木の葉を視界一面に吹き曝(さら)していた。物見遊山に出かけるまでもなく居ながらにして私は、まさしく絵になる風景の満喫を極めていた。そしていっとき、私は都会の僻地の不便さを遠のけて、山際に求めた宅地冥利に耽っていた。落ち葉時雨の間隙を突いては、私は掃除における三種の神器、すなわち箒、塵取り、透明袋(70リットル入り)を携えて、ときおり木の葉を禿げ頭にあてながら道路へ向かった。落ち葉時雨は文字どおり、まるで間欠泉のごとく、止んでは吹き曝しを繰り返していた。言うなれば落ち葉時雨は、まだ吹き曝しの途中にあった。こんななかの掃除は馬鹿げた行為だと悟り、「まだ早いよ」と、自分自身を諫(いさ)めた。ところが、わが家の宅地の側壁は吹き溜まりになっており、すでに落ち葉は側壁に沿って、長くこんもりと積んでいた。これらを除かなければ、隣からなお先へ吹き流されて、面倒をかけることとなる。私は吹き流れを止める決意をしたのである。決意の後はやおら、渋々の一度目の落ち葉かきである。私は自分自身が入れそうな大きなゴミ袋に、枯れてまったく重量のない落ち葉を何度も両手で押し込んだ。落ち葉時雨は止まず、ときおり止むと、私はまた溜まり具合を見に出かけた。この仕上げにはこの文章を閉じてのち、道路へ向かう心づもりにある。しかし、夜長にあっては、夜明けの天気模様を知ることはできない。雨や雨上がり、いやそうではなくても風が強ければ、仕上げ行為は余儀なく、打ち止めお陀仏である。立って窓際へ寄り、外気模様を確かめた。雨もない、微風さええない夜の佇まいにある。仕上げ敢行の決意をして、結文を急ぐものである。きのうの昼間、落ち葉時雨の風景を見ながら、(よし、きょうは今、書こう)と、決意した。ところがそれは果たせず、記憶頼りにいつどおりの執筆時間になっている。わが決意は、いつも哀れである。夜明けになり、のどかな朝ぼらけである。さあ、道路へ急ごう。

「馬子にも衣装」。わが文章にさずかる言葉に、感謝と御礼

11月28日(木曜日)。きのうに続いて、ほぼ定時(5時)の起き出しにある。これによりこれまたきのう同様に、執筆時間の余裕にありついている。きのうは、久しぶりに卓球クラブの練習へ出向いた。ところが、久しぶりのせいで疲れ果てた。しかし逆に、就寝時にはその疲れが効果を表して、ぐっすり眠れて起き立ての気分はきわめて良好である。まさしく僥倖、「棚から牡丹餅」が落ちてきた気分にある。一方で私は、ぐじゃぐじゃ気分に憑(と)りつかれて起き出している。その一つはこうである。かつてのわが生涯学習にはまだ勢いがあった。ところが現在は、「風前の灯火(ともしび)」さえもはやチョロ火になり、今では燃えカスさながらにある。素人書きの私にすれば、これまで途方もなく長いあいだ文章を書き続けてきた。筋トレは続けていると、やがては効果が顕(あらわ)れ、筋肉モリモリになる。ところがわが文章には、一向に上達の験(しるし)が現れない。挙句、わが心中には常に、嘆息あるいは「草臥れ儲け」だけの切ない気分が横溢している。世の中には鍛錬や努力を続けていれば、おのずから結果はともなって(ついて)くるという、励ましの言葉がある。しかしながら、わが長年の文章書きには、この言葉は埒外(らちがい)にある。わが生涯の良友(伴侶)は、かつては分厚い国語辞典であり、続いては手軽な電子辞書、そしてこの先は、スマホの便利さに置き換わるであろう。スマホに移行中にあって現在は、電子辞書およびスマホの共用にある。知りすぎている日常語、「馬子(まご)にも衣装」を見出し語において、電子辞書を開いた。【馬子にも衣装】:「どんな人間でも外面を飾れば立派に見えることのたとえ」。この成句をわが文章に用いれば、他人様(ひとさま)からさずかるありがたいコメントやメッセージ、あるいはエールと言えそうである。すなわち、わが拙(つたな)い文章への飾り言葉であり、ちょっぴり箔(はく)をつけてもらっている言葉である。実際にはわが文章にたいし、大沢さまのコメントや、高橋弘樹様のエールがさずけられると、うれしさつのるものがある。半面、このうれしさは、わが文章が「這這(ほうほう)の体(てい)」で書いている証しでもある。だから余計、わが身に余るうれしさと、なお継続へのエネルギーの賦活にあずかっている。この文章は、さずけられるコメントやエールにたいする、感謝と御礼である。初冬の夜明けの空は、限りのない日本晴れで、私にエールを送っている。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

前回と同じ花の画像でも、☆古閑さん庭園☆の花々はボリューム感がたくさんあって素晴しいです☆☆☆

庭の花

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 前回投稿した花と同じ花で二番煎じですが、現在もまだ咲いているので再度写して投稿しました。ご笑覧いただければ幸いです。

前田さんへメッセージです!!

前田さん、コロナワクチンを打たないで大正解ですよーー!!
コロナウイルスは次々と変異し続け(変異株)、いまや免疫すり抜けウイルスと化しています!!
毎回きちんきちんとコロナワクチン(ワクチンの有効期間は3か月位と言われています!!)を接種してきた人でも、感染対策をしっかりやっている人でさえも罹ってしまいます。
ぼくは、1回目感染(2022年〈令和4年〉7月の第7波の時)に続いて、この掲示板には投稿しませんでしたが、今夏も2回目感染(2024年〈令和6年〉7月の第11波の時)してしまいました。
原因は、1回目の時は都内各地へ仕事で行っていた事、2回目はやはり仕事ですが毎週のように渋谷へ行っている事だと思います。
ぼくの周りからは、「2回も感染するなんて初耳だし、お前だけだ!!」などと言われていますが(大笑)、防ぎようがありません。
前田さんのように、人とかかわるのは買い物くらい、が1番かと思います。
そして、前田さんと奥様をはじめ、前田さんの周りの方々の御健康を心より祈っております。

最近の☆『ひぐらしの記』☆は、☆前田さんの個性あふれる内容と長い文章☆で、たいへん嬉しく思っております*(^o^)/*\(^o^)/
きょうも前田さんへ”大大大エール”を贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

冬風邪、いや風邪大事に至らず

11月27日(水曜日)。わが起き出しの定時は、5時と決めている。すると、きょうはほぼ定時の起き出しにある。定時あたりだと執筆にあたり、慌てふためくことを免れる。これより遅ければ大慌てになり、逆に早ければ朦朧頭と眠気眼の抱き合わせをこうむることとなる。しかし、夜長の候にあって現在は、未だ夜の静寂(しじま)にある。このことはいっそう、執筆気分を落ち着かせている。きょうは、(文章は書けないかな)と、思って就寝した。きのうの風邪症状を引きずり、風邪薬を服用して寝たからである。ところが、幸いにも風邪症状は遠のいていて、執筆にありついている。私は今夏にあっては夏風邪をひいて、長く拗(こじ)らせていた。そのおり、こう書いた記憶がある。すなわちそれは、夏風邪という言葉は、電子辞書に記載がある。けれど、春風邪、秋風邪、冬風邪の記載はない。このことを今思い起こすと、夏風邪をひくことは異例のことであり、逆に四季のうちその他の季節にひく風邪は、あたりまえだからであろう。すると、ほぼ毎年夏風邪をひく私は、文字どおり異例の愚か者である。インフルエンザの予防注射は、効く、効かないはどうあれ、すでに打っている。このとき、信頼する主治医は、「コロナワクチン、どうされますか?…自費になり、結構高くなりますけれど…」と、問いかけられた。すると、結構高いという言葉がわが判断を狂わせて私は、「コロナには罹らないと思いますから、やめていいでしょうか…」と、返答した。すると、主治医は機嫌を損(そこ)なわれることもなく、こう言われた。「わかりました。打ちたいときに来てください。そのとき、打ちましょう」。ところが、私はまだ打たないままである。たぶんこの先、打ちたい気分にはならないであろう。もし運悪くコロナに罹り、主治医に「あのとき、ワクチンを打っていれば良かったですね」と言われても、天邪鬼の私は「そうですね」とは、言わないかもしれない。言葉を返すとすれば、「人と交わるのは買い物くらいだから、コロナには罹らないと思っていました。仕方ないです。自業自得です」。いや、こんな言葉が、主治医の前で言えるだろうか。もとより、きょうは書くつもりのない文章だから、こんなことを書いて、お茶を濁すこととなる。このところの無駄に長い文の償いともあって、ここで結文とするものである。出まかせの文章はスラスラと書けて、まだ夜明けの光が見えない、夜の帳(とばり)の中にある。仕方なく窓際に立ち、暗闇の様子を見る。雨は止んだばかりのようで、道路はベタベタに濡れている。新聞配達のバイクが尾灯を光らせ、けたたましく音を立てて過ぎ去った。

書かずにおれない、他人様(ひとさま)のご好意

十一月二十六日(火曜日)。ほぼ定時(五時)の起き出しにあり、気分には余裕がある。かてて加えて、これまでの夜遅くまでの野球のテレビ観戦が無くなり、就寝時間が早く、輪をかけて目覚めの気分は良好である。しかし、夜長は「冬至」(十二月二十一日)へ向かい加速度を増しており、いまだ夜明け模様を知ることはできない。きょうは自然界賛歌は脇において、他人様(ひとさま)からさずかったご好意を書こうと思い、パソコンへ向かっている。わが家の貧相な柿の木になった柿の実は、まだ旨味を深めつつある中秋の頃、リスとの戦いに先駆けて、勝って一つさえ残さず食べ尽くした。食べ尽くした後には、旨味の深まりまで、待てばよかった、と悔いを残した。柿の生る風景は、広い当住宅地にあっても、わが家と向かいに建つ大武様の庭中だけである。大武様は先住者の家を買われて、綺麗にリニューアルされた後、六月頃から住まわれている。私の場合、柿は食べて好し、生っている風景を眺めるのもまた佳しの筆頭にある。柿の旨味と眺める風景には最も好都合の晩秋のある日、先方は庭中に立って、私は門口に立って、思いがけなくこんなやり取りに遭遇した。私は柿の生る風景が好きなままに、大武様の庭中に立つ、柿のなる風景をしばし堪能し、奥様のお姿を目に留めず盗み見をしていた。ところが奥様は、文字どおり奥のほうでしゃがんで、何かの作業をされていたのである。奥様は私に気づかれると立って、訝(いぶか)しそうな面持ちで、庭際に近づいて来られた。(これはまずい)。私は心中にこう思い、大慌てで盗み見の怪訝(けげん)をとり払った。奥様との面識はこれまで、引っ込しのおりの初対面における、一度の短いご挨拶言葉だけだった。私は近づいて来られた奥様にたいして、盗み見を詫びて、こう言った。「すみません。私は熊本の田舎育ちで、柿の生る風景が好きです。だから、お宅様の柿の生る風景を眺めていました。ことしは例年よりいっぱい、見事に生っていますよ」「そうですか。柿、お好きですか?…」「はい。夫婦共、生っている風景、食べるのどちらも、大好きです。この頃の買い物では、柿が矢鱈と増えています。長く眺めていて、すみません」「そうですか」。このわが柿の実を強請(ねだ)るような言葉が会話の引き金になり、二つ三つ短い会話を為して、私はいつもの買い物の道を辿(たど)った。するとこの晩、ご主人がわが家の玄関口に立たれて、柿の実をショッピングバグに入れて持って来てくださったのである。そのお返しに私は、数日後に届いたふるさと産新米を少しばかり届けた。ところがきのうの晩、またもやご主人は、二度めの柿を届けてくださったのである。きょう書きたかった一編はこれで書き止めにして、次の二編はこのお便りの引用である。妻が「玄関口の取っ手に下がっていたわよ」と言って手渡したのは、小菊あるいは野菊とも言える、レジ袋入りの草花とお便りだった。忘れかけていたけれどほぼ例年、散歩ご常連(高齢のご婦人)の人から賜るご好意である。「前田様 暑い暑い夏もようやく終わり、秋を味わう時も無く、初冬を迎える頃となってしまいましたね。永らくお目にかかりませんが、お元気ですか。ワイルド感満点のわが家の庭に、菊が乱れ咲くのは 毎年のこととなりました。今年も少し秋をお届けします。楽しんでいただければ幸いです。十一月二十四日、鈴木」。私は読み終えて、文章の素晴らしさにしばし感嘆し、あすはこの文章を「ひぐらしの記」に書こうと、決めたのである。文中にある「永らくお目にかかりませんが」の理由はこうである。このところは雨の日が多く、雨が降らない日は強風が吹き荒れて、風が道路の掃除をしてくれる。また、寒気が強くなり、おのずから朝の掃除は昼間へ移行がちになっている。また文章が長くなってしまった。他人様からさずかった二つのご好意を書き記すと、もはやこの文章は要なしである。ゆえに、ここで指収めをするものである。初冬の夜明けは雨なく、しかしかなり風の強い、淡い日本晴れである。文章を閉じれば私は、お礼の出会いを求めて、道路へ向かうこととする。なんだか、老い者同士の「恋愛ごっこ」みたいである。文章が長くなり、出会いはずれて、会えそうにない。