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坂本弘司撮影

ひとときの秋天

十月十七日(月曜日)、早い起き出しで、未だ夜明け前の四時過ぎである。それゆえに、執筆時間はたっぷりとある。しかしながら、書きたいネタもない。それよりなにより書く気分は、いまだに失せたままである。確かに、きのうもそうだった。だから、ずる休みへ逃げ込んだ。きょうも、きのうの二の舞を恐れていた。ところがそれを恐れて、どうにかパソコンを起ち上げた。しかしながら気分は、きのうの二の舞同然にある。きのうの昼間は、秋天高い胸の透く秋空に恵まれた。長くぐずついていた天気のせいで、いつまでも乾ききれないでいた道路がようやく乾いた。天気の晴れは、気分の晴れを招くおおもとである。得たりやおうとばかりに昼間、私は絶えていた道路の掃除を勇んで敢行した。確かに、わが気分は和んでいた。てっきりその証しは、掃除の丁寧さに現れた。すなわち、きのうの私は、持病の腰痛さえ厭わずかがめて、道路や側溝の小草のすべてを根こそぎにした。おおかた乾いていたとはいえ、それでも目の粗い舗面には、小嵐くらいでは剥ぎきれない落ち葉がこびりついていた。これらもまた私は、腰をかがめて指先でことごとく剥いだ。抜き取った草や、剝ぎ取った落ち葉のすべてを舗面に散らかすと、仕上げは箒で丁寧に掃いた。さらに最後には塵取りで掬い、物置から持ち出しの透明袋に入れた。風なく、日照りあり、私は汗だくだくになっていた。それにもかかわらず、気分はいたって爽快になった。好天気はようやく、待ちに待っていた晩秋の胸の透く気分を恵んでいた。舗面のいたるところには季節を表す、どんぐりが転げていた。ただ惜しむらくは、いつもの早朝とは異なり昼間の掃除ゆえに、だれひとりご常連のお顔見知りの人に出遭うことはなかった。自然界の恵みの中にあってもなお、私にはお顔見知りの人たちとかわす笑顔や会釈があってこそ、わが気分の良さは増幅することをはっきりと知らされたのである。確かに、早朝であってもわが加齢のせいで、お顔見知りの人たちとの出遭いは減る傾向にある。至極、残念無念である。ゆえに早朝であってもこのところの道路の掃除には、わが命の限界を知らされるところがある。一方、秋深まるこの季節、いのち尽きた落ち葉もまた、日ごとに増えている。相身互い身、秋はやけに「命」浮き立つ季節である。やっとこさずる休みは免れたけれど、気分はいまだにすぐれないままである。夜明けてみれば小雨模様である。窓ガラスを開けて眺めた舗面は、わずかに濡れている。それでも早朝散歩のご常連の人たちは、速足でめぐるであろう。私にはきょうの早朝の掃除は無用である。ご常連でお顔見知りの人の幾人かが、落ち葉の少ない舗面を眺めて、わが無事いや生存を知っていただければと、思うところである。小雨の夜明け、きょうの昼間の秋天は、望めそうにない。

妻孝行

十月十五日(土曜日)、今にも雨が降りそうな小嵐の夜明けにある。すっかり私日記風に文章を書いていると、このところは明けてくる日も、悪天候ばかりと思うところがある。この表現は必ずしも当たっていない。なぜなら思うというより、実際にもそうだからである。頃は中秋を過ぎて、すでに晩秋へ深入りしている。それなのに大袈裟な表現に切り替えれば、私には初秋からこれまで好季節・秋の天候に恵まれた実感がない。さらにくどく言葉を重ねればこの秋、私は秋天高い胸の透く天候の恩恵を感じていない。異常気象と天候不順は、同義語なのであろうか。いずれにしても、大損気分横溢である。そぼ降る雨の中、きのう私は、長く途絶えていた「今泉さわやかセンター」(鎌倉市)へ出向いた。ここには、妻と共に所属する卓球クラブがある。しかしながら、妻の転倒事故(騒ぎ)以来、突然介助役が降ってきて私は、自分だけでも卓球クラブへの足が遠のいている。ここには卓球クラブ同様に、カラオケ同好会のクラブもある。音痴の私には用無しのクラブだけれど、歌好きの妻は嬉々として所属している。ところが、転倒事故以来おのずから妻の足は、途絶えたままである。カラオケクラブには、優しい高齢の男女の仲間がいる。きのうはその仲間のおひとり、近くの男性から妻へ誘いの電話があった。マイカーでの迎え送りつきだという。これにはこんな事情もあった。それは妻がこれまで長い間、買って持ち込んだCDが不要となり、持ち帰って欲しいという用件であった。そうであれば迷惑をかけるから、行かざるを得ない。持ち帰りに妻ひとりではさらに迷惑をかけると思い介助役の私は、いつものように引率同行した。きのうは、雨のせいか十人足らずの高齢仲間が来ていた。妻は久しぶりにマイクを握り、持ち歌・愛唱歌(懐メロ)の何曲かを歌って、心を躍らせていた。舞台は畳敷きの大広間である。介助役の私は、高齢仲間の歌謡ショーをだれかれになくお愛想の手を叩き、三時間半ほど見入っていた。妻の気分は高揚し和やか、わが、妻孝行の一日だった。読んでくださる人にとっては、まったく味気ない文章である。「ひぐらしの記」は、すっかり私日記へ成り下がり、大恥晒しさえ厭(いと)わなくなってしまい、ほとほとなさけない。雨降りは免れそうだけれど、いまだ朝日は雲隠れのままである。

故障

十月十四日(金曜日)、夜明けは小雨まじりの小嵐。自然界は好季節をそっちのけにして、悪天候が続いている。わが身体および精神は共に不良が続いて、文章を書く気分が殺がれている。無理して書くネタもない。恥を晒して書くこともない。休みます。わが子どもの頃のおんぼろバスにたとえれば、突然のエンストではなく、手回しでエンジンをふかしても、再起動にありつけそうにない。ほとほと、困ったものである。

私の畑

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十月八日に冬の野菜の種を蒔いた。私の家の近くには野菜の種を売っている店がなく、去年、家から徒歩で二十分あまりの百円ショップで売っていることをつきとめた。ところがそのときはすでに冬野菜の時期は過ぎていて、今年の春を待ってようやく買うことができた。
 今回も時期を外れないように気をつけていて買うことができた。春菊、小松菜、サニーレタス、葉大根、小カブ、二十日プランター用のプランター用の有機土をネットで購入したら、西洋赤大根の種が五粒サービスされていた。三日で芽が出るとあったので蒔いたら確かに出た。
 根がついてる小ネギを購入して、葉の部分を使用した後、いつも根の部分はプランターの土に植えておく。時間はかかるが、やがて葉が出て摘み取って食べている。
 だいぶ前に葉がついたパイナップルを購入した。葉があまり立派だったので果実の部分は食べて、葉は鉢植えにして置いた。根付いたようで青々と元気だ。実が成るとは思えないけれど。なんとなく期待してしまう。
 この秋も私の畑は全て芽が出て収穫が楽しみだ。

嗚呼、嘆息

十月十三日(木曜日)、いまだ暗闇の夜明け前にある。パソコンを起ち上げたけれど、気分が乗らず長く机上に頬杖をついている。気分喪失の原因は体調不良に加えて、パソコン操作の未熟さが起因している。世の中はパソコンにかぎらず、すべてに日進月歩、デジタル社会を強めるばかりである。それゆえにこれらに不得手の私の場合は、日常生活が鬱陶しさまみれにある。一方、あらゆるデジタル機器を駆使できる人には、確かにきわめて便利かつ有効な社会であろう。だから、無能の私からしたらそれらは、どんなに崇めても崇めきれない、羨望著しい人たちである。私にとってデジタル社会は、恨めしさつのるばかりである。もちろんそれは、私だけのデジタル事情である。日常生活にあってもう一つ鬱陶しさおぼえているものには、ポイント(固定客引き込みのオマケ)社会がある。これまた、無能ゆえのわが固有事情の鬱陶しさである。テレビ通販の誇大広告も耳障り激しく、鬱陶しいかぎりである。結局、無能の私にとって文明の利器社会は、きわめて生きにくい社会である。しかしながら、わが固有事情であるゆえに、これらに泣き言は言っても、もとより逆らうことはできない。なぜなら、確かにデジタル社会は、総じて便利な世の中を生み出し、この先へ向かっていっそう加速度を強めて、進化するばかりである。挙句、これに取り残されているわが身の無能を嘆くより仕方ない。再び書けばデジタル社会は、私にかぎればきわめて生きにくい世の中である。ネタのないパソコン生活は苦痛である。頬杖をついているうちに、薄っすらと夜が明けてきた。風雨まじりの夜明けである。

前田さんへ謝意

 わたしの作品を思い出して下さり有り難うございます。読んでくださる方がいるのも嬉しいのですが、心に思いとどめてくださるのはなおさら喜びです。作品を生み出すのは大変です。明けても暮れてもそのことばかりが気にかかり、重苦しい日常になってしまいます。そんなに苦しいのであれば、止めれば良いのにとどこからかささやきが聞こえてきます。それでもその声に引きずられてしまったら、私の日常は味気ないものになってしまいます。

わが脳髄は、空っぽ

十月十二日(水曜日)、起きて、パソコンを起ち上げても書くこともない。こんな心境が果て無く続いている。私は、もう止め時と際限なくつぶやいてきた。ところが、なかなか見切れず、牛の涎のごとくだらだらと続けている。挙句、味もそっけもない文章に陥っている。自業自得とはいえ、常連にあずかってきた人さえ、少なくなってしまった。ゆえに現在の心境は、部活やスポーツ競技において、練習ばかりで試合には出られない人の切なさ、侘しい心境に似ている。無理して何かを書こうと思えば、こんなくだらないことしか書けない。こんな文章の唯一の取り得は、生きている証しにすぎない。この文章、ここでやめようかと思う。しかし、せっかくだから、世の中の一つや二つ、三つのことを書いてみる。一つは、ウクライナは連日戦争状態で、実際のところはどんな状態であろうか。連日戦争状態であれば、国は破綻していると思うところがある。一つは、幸いにもこのところのコロナの感染選者数は、ようやく漸減傾向にある。うれしいかぎりである。これに関してわが望むのは、だれもがマスクを外した生活への復帰である。マスク生活は自分自身鬱陶しいし、さらに人様のお顔の見えないことは、生活の面白味を欠いている。最後の一つは、経済活動の後押しとはいえ、旅行へ行く財力のある人へ、あえて税金で補助をする必要があるであろうかという、下種の勘繰りである。すなわち私には、税金の使い道の不公平感が渦巻いている。約二十分間の書き殴りで、文章を閉じる。能無し野郎の切なさが込み上げている。夜明けの空はわが心象のごとく、どんよりとして今にも雨が落ちてきそうである。こんな文章は、無理して書かなきゃ良かった。寝坊助の後の祭りである。

「スポーツの日」、明けて

十月十一日(火曜日)、三連休明けの夜明けは、雨なくのどかに明けている。手元にカレンダーがなく、きのうの表題では、失態を演じた。脳裏にこびり付いていた「体育の日」は、二年前(2020年)から「スポーツの日」と呼称を変えて、設定日を替えていた。飛んだしくじりだったけれど、そんなに罪意識はない。きのうの私は、みずからの身体は茶の間もソファに凭れたままに、二つのスポーツのテレビ観戦に興じた。もとよりこんなスポーツの日は、設定の趣旨に副うものではなく、大いに慎むべきところではある。ときにはソファから身を起こし、テレビ体操に合わせて柔軟体操でもすれば、いくらか設定趣旨に副うところはある。ところが私は、それさえせずにミノムシさながらに、ソファにべったり張り付いていた。テレビ観戦の一つは、大学三大駅伝の一つである「出雲駅伝」であった。出雲は、大沢さまのふるさとである。私は、かつて大沢さまが書かれたご姉妹三人のお母様の納骨紀行文を懐かしく蘇らせていた。それゆえ、大沢さまに何度か電話を入れようかと思いながらも果たせず、観戦を続けた。もう一つはプロ野球、阪神タイガース対横浜ベイスターズの第三戦(最終戦)のテレビ観戦だった。こちらはタイガースが勝利し、次のステップで東京ヤクルトスワローズ戦へ進んだ。結局、スポーツの日は、みずからの身体はソファに張り付いたままに、人様が為すスポーツのテレビ観戦で終始した。しかしながら気分は、晴れ晴れとした。このことでは他力本願にすがり、スポーツの日に報われた気分だった。すなわち、きのうスポーツの日は、二つの競技のテレビ観戦に興じて、気分晴れ晴れの清々しい一日だった。老躯に鞭打つスポーツは沙汰止み、もっぱらテレビで観るスポーツに変わっている。それで気分が晴れれば、越したことはない。なぜなら、粋がってやって、挙句転んで腰でも傷めれば、年寄りの冷や水となり、バカ呼ばわりされるだけである。夜明けの空は、淡い日本晴れに変わっている。

体育の日

きょうは「体育の日」(十月十日・月曜日)、三連休最終日にあっても、とうとう雨まじりのぐずついた夜明けを迎えている。目に見えない天界の事情は知るよしないけれど、損々気分横溢である。日本列島のきょうあたりは、好季節の秋の真っただ中にあっても、飛びっきりの好天にあずかれるはずである。ところがきょうと言わず三連休の天候は、好季節の恩恵を遠のけたままである。もとより体育の日は、好季節および好天をあてにして、国民の健康増進の一助を願って、国の祝祭日として設けられている。これに呼応し体育の日にあっては、学び舎では運動会、自治体などでは市民体育祭などが集中的に行われている。これらのことをかんがみれば、とんだ悪天候の夜明けである。運動会や体育祭にかぎらず、このおりの三連休は絶好の物見遊山の機会でもある。ところが、天候のぐずつく三連休は、それらの多くを台無しにして終わりそうである。つくづく残念無念である。翻って私の場合は、夏風邪以降いまだに治りきらず、加えれ諸々に体調を崩している。それにより、今なお憂鬱気分を引きずっている。憂鬱気分は、文章を書く気分を殺いでいる。挙句、こんな愚痴こぼしを二か月余も書いている。それゆえ、パソコンを起ち上げる前はいつも、(きょうは休もう)という気分が心中に渦巻いている。きょうもまたそんな精神状態でパソコンを起ち上げ、こんな文章を書いている。自分自身なさけないと同時に、かたじけなく思うところである。この先、書く気分を失くしている。ほとほと、なさけない体育の日である。

一日を生かされた、テレビ観戦

十月九日(日曜日)、どんよりとした曇り空にあって、雨のない夜明けが訪れている。明日の天気予報は聞いていないけれど、行楽日和とは言えそうにない三連休半ばの空模様である。起きてきて、生きている証しの文章を書いている。きのうの昼間は、プロ野球、阪神タイガース対横浜ベイスターズ戦のテレビ観戦に興じた。試合は今シーズンの公式戦を終えたのちの、クライマックスシリーズの初戦だった。どちらかが二勝すれば、次のステージへ臨めることになる。次の相手は、今シーズンの公式戦で優勝した東京ヤクルトスワローズである。きのうの試合は、タイガースが勝った。それゆえきょうも勝てば、タイガースは次のスワローズ戦へ勝ち進むことになる。負ければ、明日の試合でどちらかに決まる。きょうもまたわが夫婦は、身構えてテレビ観戦をすることとなる。夜は、世界卓球選手権のテレビ観戦に見入った。男子は準決勝で中国と対戦した。結果は2対3で惜敗した。しかし、日本チームは予想を超える大奮闘だった。女子は決勝戦で、これまた中国と対戦した。試合結果は、0対3の完敗だった。中国の強さが際立った。しかしながら、男女両チームともに、神業とも思える技量を発揮した。神業とは、人間業ではないという決まり切った表現である。私は、中国であろうと対戦国にお構いなく、技量を称賛し堪能した。男女とも中国に負けたとはいえ、私はまったく引けをとらない日本選手の技量の凄さに酔いしれた。結局、きのうの私は、昼夜のスポーツのテレビ観戦で、気分の良い一日を過ごした。きょうの私は、きのうに続いて「柳の下のドジョウ」を狙っている。ひたすら、他力本願にすがるわが生存である。