春の七草、「七草がゆ」

きょう「七草」(土曜日)、あす「初薬師」(日曜日)、あさって「成人の日」(月曜日)、カレンダーに記載ある歳時および式典を並べれば、ごちゃまぜ三連休の初日(1月7日)を迎えている。起き立ての私は、寒気に震えている。ところが、きょうの関東地方には降雪予報が出ている。しかし、時季をかんがみれば寒気および降雪共に、仕方がないところである。もちろん、自然界とて目くじら立てて人間界に悪さをしているわけでなく、季節に沿った文字どおり自然の営みである。そうであれば人間は春の訪れまで、寒気や降雪をじっと我慢するよりすべはない。そして、我慢を強いられるのも、そんなに長くはない。いや、もう早春の訪れにある。きのう、茶の間のソファに凭れて日向ぼっこを貪っていると、山から春早駆けのメジロが、庭中のツバキの花に飛んで来た。例年、この時期に見てきた早春の証しである。私は、見慣れているのどかな光景に酔いしれた。挙句、ふりそそぐ太陽光線と椿の花の蜜を吸うメジロに感謝した。それは、疲れているわが心身を癒してくれた御礼だった。随筆集と銘打っている「ひぐらしの記」は、今やまぎれもなく「私日記」へ成り下がっている。それどころか本来であれば秘かな私日記を、「ブログ」にしたためて世に晒している。それゆえに私は、おのずから余計な神経を使う羽目になっている。恥を晒さないためには、選んだネタを練り上げて、さらに文章をととのえて書くべきである。もちろん私は、十分この意を持って、ノート代わりのパソコンを起ち上げている。しかしながら実際には、この意は果たせず制限時間に追われて、書き殴りや走り書きに甘んじている。自分自身に課している制限時間は、夜明けまであるいは朝御飯の準備までである。もとよりわが文章書きの習性は、目覚めて起き出しては制限時間を浮かべて、焦り逸る気持ちで書いている。ところがこの習性は、もとより大損である。なぜなら、常に眠気眼と朦朧頭に脅かされているからである。挙句、文章を書く態勢には程遠いものがある。このことを嫌って私は、文章書きを昼間への移行を試みた。しかしながらこの試みは定着せず、元の木阿弥となり、起き立てに書いている。やはりわが願望は、たっぷりと睡眠をとり、制限時間に追われず、寒気を撥ね退けて、パソコン部屋に燦燦と射し込む陽光を背に受けて、書きたいものである。ところがこの願望は果たせず、挙句、このところの私は、書き疲れと胃部不快感に悩まされている。私は子どもの頃から、「お粥御飯を食うぐらいなら、死んだほうがましだ!」と、思うほどにお粥御飯が大嫌いである。ところが、疲れとりや胃部不快感に良ければ、きょうは「お粥御飯」でもいいかな、と思うほどに心地が様変わっている。現在、デジタル時刻は5:43である。それゆえ執筆時間は、制限時間まではまだたっぷりとある。しかし、ここで書き止めしないと、書き殴り文はとめどなく続いて終着しない。それどころか疲れと胃部不快感になお、「草臥れ儲け」の上増しとなる。執筆時間がありすぎるのも、書き殴りが止まらず、困ったものである。春の七草、秋の七草をおさらいしている。体だけが、やけに冷えている。