掲示板

坂本弘司撮影

憂鬱気分直しの、愉快な柿の話題

十月二十九日(土曜日)、夜明けの空は朝日の見えない曇り空である。しかし、雨は免れそうである。わが起き立ての気分もまた、どんより曇っている。ただ、かろうじて涙は免れている。人生行路は茨道である。それゆえ常に、悲涙が寄り添っている。愚痴こぼしは専売特許、すなわちわが人生の証しである。私は愚痴を溜め込むことなく、恥晒しを省みず、「ひぐらしの記」に吐露している。それで、愚痴を緩めている。この点、ひぐらしの記は、わが愚痴こぼしを受け止めて、和らげる万能薬である。きょうは書くまでもないことを書いて、文章はここで結ぶつもりだった。ところが、憂さ晴らしにはこの上ないメデイアの配信ニュースに遭遇したのである。頃は目下、晩秋の熟柿の季節である。小、中学生頃の校外写生時間にあっては、私は決まって「内田川」の土手に腰を下ろし、川向こうの「相良山」の麓に散らばる民家の庭先に生る、柿の風景ばかりを描いていた。今では毎日、買い置きの柿をムシャムシャ食べている。柿は食べ物を超えて、わが人生に自然界が恵む人生最良の友達である。現下の日本社会にあって国民は、日々物価値上げ報道に音を上げている。それゆえ、柿二つの高値が憎たらしく思える話題だけれど、半面憂鬱気分直しには格好の愉快なニュースでもある。だから、休むつもりの文章に替えて、全文引用を試みている。もちろん、私自身の身勝手な気分直しではある。【最高級ブランド柿!最高額2個100万円‼ 岐阜の「天下富舞」今季初競り】(10/28(金) 11:52、ぎふチャンDIGITAL)。岐阜県が誇る高級ブランド柿「天下富舞(てんかふぶ)」の2022年度の初競りが28日行われ、これまでで最も高い2個100万円で競り落とされました。「天下富舞」は、糖度が20度を超える甘みとサクサクとした食感が特徴です。22年度の初競りは28日朝、名古屋市中央卸売市場で行われました。 毎年、初競りでは高値で取り引きされていて、去年は2個86万円で競り落とされた「天下富舞」。28日も価格はどんどん上がり、これまでで最も高い2個100万円(税抜き)で競り落とされました。  競り落とされた柿は、天下富舞の中でも最高ランクの「天下人(てんかびと)」で、糖度は25度を超えます。早速、名古屋市中川区にあるスーパーマーケット「バロー千音寺店」の店頭で販売されます。天下富舞の競りは来月上旬まで続きます。

私の畑

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 ベランダの私の畑の野菜たちは、一回目の間引きが終わって、かなり成長した。二回目の間引きは、本葉が四、五枚出てからなのでもう少し後になる。ねぎは、青いところを切って使った後の根のついた白いところを植えたもので、成長すれば何回も切って食べられるので重宝している。
 今朝はベランダに出たら、赤とんぼがプランターに止まっていた。急いでカメラを取りに行って戻ってきたらまだ止まっていたのだけれど、カメラを構えて狙いを定めズームしている隙にどこかへ飛び去ってしまった。ベランダでトンボを見たのは初めてだった。
 水まきをしていたら、小さな蝶が飛び立った。

デジタル社会、私は生きる屍(しかばね)

十月二十八日(金曜日)、まだ夜明けの明かりは見えない。それゆえ、天気の良し悪しはわからない。だから今のところは、朝日に気分賦活の手助けを託すことはできない。夜明けて、できれば晩秋の日本晴れを望んでいる。そうなれば、格好の気分癒しとなる。なぜなら、私は目覚めて寝床の中で長く、こんなことを浮かべては、甚(いた)く精神を脅かされていたのである。デジタル蔓延する現代社会にあっての私は、分別ごみになぞらえれば再生の利かない無価値の生き物である。ただ、生きている姿をかこつだけの屍(しかばね)である。幸いにも現在は職業(仕事)を離れて、まともにデジタル無能のつらさ、悲しさ、衝撃を免れている。言うなれば私は、デジタル蔓延の現代社会よりいくらか前の時代に労働し、素晴らしい職場にも恵まれて、それらの悲哀を緩やかにできた。顧みて、今ではまったく不可能な快事だった。なぜなら、必ずしも無難だったとは言えないけれど、途中解雇に遭わず、定年(六十歳)までまっとうできたのである。それゆえ私は、会社の恩顧が身に沁みて、今なお有難さの極みにある。現在は、定年後の二十二年にある。現在も勤務の身であれば、職場不適合の誹(そし)りを受け、途中解雇の憂き目を見て、わが精神は気狂い、錯乱状態であろう。科学の進歩、デジタル社会は、日進月歩を続けている。具体的には、AI(人工知能)、IT(情報技術)など、旺盛・進化の到来にある。すると生来、脳髄凡愚、指先不器用の私は、これらに適応できず生きる屍状態となる。きのうの私は、妻をともなって久しぶりに、バスと電車を乗り継いで、鎌倉市役所本庁へ出向いた。用件は、浅ましくもマイナカード作成によるポイント申請だった。このおり垣間見た職場のすべでは、職員みんながパソコンを前に置いて、画面を凝視し指先繁く画面をなぞっていた。私にすれば、空恐ろしい光景だった。この光景の後遺症により私は、きょうはこんな文章を書かずにおれなかったのである。夜明けてみれば朝日の見えない雨模様である。きょうのわが気分は、朝日の助けなく一日じゅう燻(くすぶ)りそうである。

欲深いわが精神

十月二十七日(木曜日)、すっかり明けきった夜明けは、満天かぎりなく胸の透く晩秋の青空にある。このところの文章の冒頭は、夜明け模様の定型文へ成り下がっている。もちろん、こんなことではまずいと思うけれど、パソコンを起ち上げてまず見るのは、前面の開けっ広げの雨戸越しに、窓ガラスを通して見る夜明け模様だから仕方ない。そして、空模様しだいでわが気分は、すぐさま良し悪しになる。すると、きょうの寝起きの気分は、空模様に助けられて晴れ状態にある。これは、自然界から無償で賜る恵みである。ところが、欲深いわが精神は、それだけでは足りず、人様から賜るエールにもすがっている。きのうは高橋様からエールに加えて、いつまでも治りきらない鼻炎症状にたいする、貴重なアドバイスをいただいた。ありがたいことにこれまた、ありがたさきわまりない無償の恩恵だった。このことにより、鼻炎症状をともなって萎えていたわがひ弱い精神は、賦活した。このとき私は、自然界の恵みを凌いで、人様から賜るエールの有難味と大きさをあらためて知らされた。感謝の気持ちはお伝えしたけれど、再び御礼を重ねるところである。年老いて私は、日々生きることの困難さに打ちのめされている。具体的には、生きるための気分あるいは気力が萎えゆくばかりである。それに抗(あらが)う賦活剤には、まずは起き立ての空模様の良さにすがるところがある。ところが、これを凌ぐものはやはり、人様から授かるエール(応援歌)である。「人は、誉めて育てよう」という、万民が認める教育観がある。すると、私にはエールを身勝手に誉め言葉と曲解し、これで萎靡(いび)きわまるわが精神の賦活剤にあずかろうという、さもしい魂胆がある。そして確かに、エールを賜ると、わが萎えていた精神は賦活する。なんて虫の良い、わが欲深い精神であろうか。いつもの言葉に換言すれば、わが小器とお里の知れるところである。ちょっとばかり時が過ぎて、朝日はいっそう青く輝いている。つれてわが気分は、明るさを増している。それでも、人様から授かるエール(激励の言葉、しかし私は、身勝手に誉め言葉と曲解している)にはかなわない。きのうの場合は、いくらかぶっきらぼうに言えば、「高橋様に、恩に着る」ところ莫大である。もちろん、浅ましくこの先もおねだりしているのではなく、この文章を書かずにはおれなかったのである。

♪前田さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます!!

最近、いろいろと慌ただしくて、掲示板投稿ができていませんでした。
これに伴ない、前田さんへの大大大エールもお久しぶりとなってしまった次第ですm(_ _)mm(_ _)m
前田さんが☆パワーアップ☆していただければ、こんなに嬉しいことはありませんので、これからも前田さんを大大大応援して行きますからねーーー☆☆☆

高橋弘樹様へ、感謝!

こんにちは。お久しぶりです。お元気のご様子で安堵いたしました。いつもながらの大、大、大エールに加えて、親切かつ貴重なアドバイスを賜り、二重のお礼を申し上げます。いつも、ありがとうございます。

♪前田さんへ、こんな私的なこと、お書きになってよかったです!!

前田さんの『ひぐらしの記』は、前田さんの私的なこと、をお書きになってこそ☆前田さんの個性輝く(溢れる)文章☆になっていると思います。
前田さんは、お気づきになっていらっしゃいませんが、『前田さんの私的なこと=前田さんの個性』となっております!!
世の中のことは、多くの方がお書きになったり、投稿したり、コメントしたりしています。
しかし、『前田さんの私的なこと』は、前田さん御自身でしか書くことはできません!!
そこに『ひぐらしの記』の価値があり、前田さんの個性が発揮される絶好の機会だと思います!!
こんな棒にも箸にもかからない私的なこと、とおっしゃらずに☆前田さんの私的なこと=前田さんの個性☆を大切に、これからも『ひぐらしの記』をお書きになっていただきたいと思います。

それから、前田さんの鼻炎症状ですが、内科の処方薬で効果ナシでしたら、耳鼻咽喉科へ通院して、薬を処方していただいた方がよろしいかと思います。

きょうも前田さんへ大大大エールとともに大大大エネルギー&大大大パワーを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

こんな私的なこと、書かなきゃよかった

十月二十六日(水曜日)、夜明け前の五時過ぎにパソコンを叩き始めている。しかし、眠気眼で朦朧頭である。最低、一週間ほどはと願っていた安眠は、中ほどで虚しく途切れた。二度寝にありつけないままに寝返りを繰り返し、挙句、悶々気分に脅かされて、仕方なく起き出している。最も気分が休まるはずの睡眠がこうも体(てい)たらくでは、もはや気分が休まるところはない。何かの罰当たりを被(こうむ)っているのであろうかと、自問を試みる。しかし、その根拠や自覚はない。生きて、安眠を得られないようでは、その解決策は永眠しかない。だからと言ってすぐには、永眠願望はないけれど、ちょっぴり憧れるところはある。こんな棒にも箸にもかからない私的なことを書き続けているせいであろう。「ひぐらしの記」は、読む人離れのドツボに入りつつある。自業自得のなれの果て、確かな証しである。こんなことではなさけないと、世の中のこと浮かべれば、行きつくところは、目下の新型コロナウイルス状況である。コロナへの感染状況は漸減傾向を深めていたけれど、メデイアの報道によればこれに歯止めがかかり、また増勢傾向を強めはじけていると言う。そうだとすれば私は、コロナには罹らずとも、マスクを着けて永眠する羽目になりそうである。これまでも何度か書いたけれど、私の場合、マスク着けの日常生活はまったく楽しくなく、もう懲り懲りなのである。それは人様と比べて、余計神経を使う生活を強いられているからである。実際には、難聴対応の集音機、近眼正しの眼鏡、さらにはコロナ感染防止のマスクの紐などが、両耳にかかっているからである。これらにより私は、鬱陶しさ、煩わしさ、神経の尖り、すなわち三竦みの状態に悩まされている。大袈裟でもなくこの状態は、結構面倒である。きょうもまた、こんな書くまでもない私的なことを書いてしまった。確かに、「ひぐらしの記」は、尻すぼりに留まらず、必然的に潮時にある。夜明けの空は、大海原の日本晴れ。私は両目を見開いて、眠気眼(ねむけまなこ)を癒している。

せてない、蛇足

なかなか、好天気は続かない。雨模様である。一方、鼻炎症状は打ち止めなく、続いている。鼻水たらたらである。歯がゆい。

気鬱治しは、椎の実で!

十月二十五日(火曜日)、きのうの文章でできれば、一週間程度は続いてほしいと願った起き立て時は、四日目へと続いて夜明け前のほぼ同時間帯にある。しかしながらわが精神状態はきのうとはまったく異なり、鼻水たらたらの不快・鬱状態にある。一時、治ったと嘯(うそぶ)いた鼻炎症状はぶり返し、かつ根づいて持病になりかけている。ただ、持病というほどの持ち時間(余生)はない。みずからへの戒(いまし)め、単なる鼻炎症状と言って侮(あなど)るなかれ! 気鬱のつらさは軽病とは言えない。わが枕元には医師の処方箋による風邪薬、加えて四ブランドの市販の鼻炎薬が散らばっている。ところが、どれもこれもにも未だ著効にありつけず、ゴキブリ同然の散らばりかたである。案外、内臓器官のあちこちに、副作用だけはもたらしているのかもしれない。恨みつらみたらたらの、天邪鬼あまのじゃく)の下種(げす)の勘繰りである。手元に置くテイッシュ箱代わりの丸々のトイレットペーパーは、みるみるうちに細身になるばかりである。さて、わが清掃区域にあってこの頃は、道路のあちこちにドングリが転げている。御池がわりに、側溝にもたくさん嵌(はま)っている。転げているドングリを目にして童心がよみがえり、私は果て無い郷愁に馳せている。それはこの季節にあって、子どもの頃の里山の中での、まん丸・真っ黒の椎の実拾いの思い出である。もちろん、拾うばかりの遊戯ではなく、心躍り勇んで持ち帰ると、待ち構えていた母がすばやく、フライパンでゴロゴロと炒(い)った。なんと旨いことだろう!。椎の実の旨さは、言い伝えではわからない。「百聞は一見に如かず」。いや、椎の実の旨さだけは、「百聞は体験に如かず」である。きょうはこんなくだらないことを書いて、この先の文章は打ち切りである。今なお、治りきらない鼻炎症状のせいである。パソコンを閉じれば、鼻かみ作業に大わらわとなる。この先、一週間程度で終わりそうにない。もちろん、こちらの長引きは願っていない。薄っすらと夜が明けた。朝日の見えない、曇り空である。