気鬱治しは、椎の実で!

十月二十五日(火曜日)、きのうの文章でできれば、一週間程度は続いてほしいと願った起き立て時は、四日目へと続いて夜明け前のほぼ同時間帯にある。しかしながらわが精神状態はきのうとはまったく異なり、鼻水たらたらの不快・鬱状態にある。一時、治ったと嘯(うそぶ)いた鼻炎症状はぶり返し、かつ根づいて持病になりかけている。ただ、持病というほどの持ち時間(余生)はない。みずからへの戒(いまし)め、単なる鼻炎症状と言って侮(あなど)るなかれ! 気鬱のつらさは軽病とは言えない。わが枕元には医師の処方箋による風邪薬、加えて四ブランドの市販の鼻炎薬が散らばっている。ところが、どれもこれもにも未だ著効にありつけず、ゴキブリ同然の散らばりかたである。案外、内臓器官のあちこちに、副作用だけはもたらしているのかもしれない。恨みつらみたらたらの、天邪鬼あまのじゃく)の下種(げす)の勘繰りである。手元に置くテイッシュ箱代わりの丸々のトイレットペーパーは、みるみるうちに細身になるばかりである。さて、わが清掃区域にあってこの頃は、道路のあちこちにドングリが転げている。御池がわりに、側溝にもたくさん嵌(はま)っている。転げているドングリを目にして童心がよみがえり、私は果て無い郷愁に馳せている。それはこの季節にあって、子どもの頃の里山の中での、まん丸・真っ黒の椎の実拾いの思い出である。もちろん、拾うばかりの遊戯ではなく、心躍り勇んで持ち帰ると、待ち構えていた母がすばやく、フライパンでゴロゴロと炒(い)った。なんと旨いことだろう!。椎の実の旨さは、言い伝えではわからない。「百聞は一見に如かず」。いや、椎の実の旨さだけは、「百聞は体験に如かず」である。きょうはこんなくだらないことを書いて、この先の文章は打ち切りである。今なお、治りきらない鼻炎症状のせいである。パソコンを閉じれば、鼻かみ作業に大わらわとなる。この先、一週間程度で終わりそうにない。もちろん、こちらの長引きは願っていない。薄っすらと夜が明けた。朝日の見えない、曇り空である。