デジタル社会、私は生きる屍(しかばね)

十月二十八日(金曜日)、まだ夜明けの明かりは見えない。それゆえ、天気の良し悪しはわからない。だから今のところは、朝日に気分賦活の手助けを託すことはできない。夜明けて、できれば晩秋の日本晴れを望んでいる。そうなれば、格好の気分癒しとなる。なぜなら、私は目覚めて寝床の中で長く、こんなことを浮かべては、甚(いた)く精神を脅かされていたのである。デジタル蔓延する現代社会にあっての私は、分別ごみになぞらえれば再生の利かない無価値の生き物である。ただ、生きている姿をかこつだけの屍(しかばね)である。幸いにも現在は職業(仕事)を離れて、まともにデジタル無能のつらさ、悲しさ、衝撃を免れている。言うなれば私は、デジタル蔓延の現代社会よりいくらか前の時代に労働し、素晴らしい職場にも恵まれて、それらの悲哀を緩やかにできた。顧みて、今ではまったく不可能な快事だった。なぜなら、必ずしも無難だったとは言えないけれど、途中解雇に遭わず、定年(六十歳)までまっとうできたのである。それゆえ私は、会社の恩顧が身に沁みて、今なお有難さの極みにある。現在は、定年後の二十二年にある。現在も勤務の身であれば、職場不適合の誹(そし)りを受け、途中解雇の憂き目を見て、わが精神は気狂い、錯乱状態であろう。科学の進歩、デジタル社会は、日進月歩を続けている。具体的には、AI(人工知能)、IT(情報技術)など、旺盛・進化の到来にある。すると生来、脳髄凡愚、指先不器用の私は、これらに適応できず生きる屍状態となる。きのうの私は、妻をともなって久しぶりに、バスと電車を乗り継いで、鎌倉市役所本庁へ出向いた。用件は、浅ましくもマイナカード作成によるポイント申請だった。このおり垣間見た職場のすべでは、職員みんながパソコンを前に置いて、画面を凝視し指先繁く画面をなぞっていた。私にすれば、空恐ろしい光景だった。この光景の後遺症により私は、きょうはこんな文章を書かずにおれなかったのである。夜明けてみれば朝日の見えない雨模様である。きょうのわが気分は、朝日の助けなく一日じゅう燻(くすぶ)りそうである。