坂本弘司撮影 書くこともない、浮かぶものもない、夜明けが訪れている。8月2日(水曜日)、しいて書けば、心地良い夏の朝が訪れている。たったこれだけの文章にあっても、私は表現に苦慮した。すなわちそれは、似たもの「夜明け」そして「夏の朝」の用い方である。実際のところは「夜明け」表現でいいところを、意識して「夏の朝」を重ねたのである。この理由を書けばそれは、心地良さすなわち清々しい気分を表すには、「夏の朝」のほうがはるかにわが五感をくすぐったからである。ネタが浮かばない場合、こんなどうでもいいことを書くより逃げて、結文にしたいところである。文章における語彙、実際には言葉の表現は難しく、確かに凡愚の私には手に負えないところだらけである。日本列島にあっては、夏の訪れとともに、いよいよ台風襲来の季節にある。早やてまわしにこのところのテレビニュースは、沖縄本島および周辺諸島における台風6号の状況報道におおわらわである。台風襲来のニュースに出合うたびに私は、こんな幼稚な言葉を浮かべて、わが頭を悩ましている。それは、兆し、前触れ、先ぶれ、余波、一過などの言葉である。総じて、「所為(せい)」という言葉である。傍らの妻は、ふとこんな問いかけをした。「パパ。ちょっぴり雨が降ったのは、沖縄の台風のせいかね?」。私は言葉に窮し、濁してこう答えた。「兆しにはなっているかもしれないが、前触れとは言えず、まだ台風6号のせいではないであろう。気象予報士は、『関東地方は、大気不安定と言った』よ」。自分自身、なんだか煮え切らない答えだった。妻は後追いの言葉をせず、黙りこくった。たぶん、わが頼りない言葉に飽き足らず、二の句が継げず匙を投げていたのであろう。一過そして余波は、台風にかぎらず物事が済んだ後の言葉だけれど、これとて用い方には難しいところがある。こんな幼稚なことは書き厭きた。それゆえに、いよいよ結文である。心癒しには、清々しい青天上の大空を眺めている。これこそ、夏の朝が恵む醍醐味である。ネタの浮かばない文章は、「夏の朝」にすがっている。みっともないけれど、心地良い朝の訪れにある。 富田さん、転倒したのは過去のことですか。 凍結した道路で、転倒、腰を痛めました。朝、5時前から「ワシワシ」とセミが、うるさく、睡眠不足です。冬と夏は嫌いです。 8月1日(火曜日)、デジタル時刻は、3:09と刻まれている。ウトウトさえにも寝付けず、日を替えて0時過ぎあたりから、寝床で煩悶に苛まれていた。雨戸を閉めていない寝室の寝床に寝そべっていると、まるで間欠泉のごとくに稲光が煌めいてくる。稲光をいくらか後追いして、ゴロゴロと雷鳴が轟いてくる。自然界の営みは、わが身体の機能(器官)の不具合を超越して、真夜中をも構わず光と音をもたらしている。就寝のおりの私は、目から眼鏡を外し、両耳から集音機を外している。すなわち、視覚および聴覚不全の状態にある。ところが稲光と雷鳴は、共に認知される。稲光と雷鳴は、わが目と耳の機能テストみたいである。幸いなるかな! テストの結果は、まったくの不全ではなく、機能(器官)の衰えの証しである。突然の稲光と雷鳴は、人間心理に様々な恐怖心をもたらすところがある。私は仕方なく起き出して、パソコン部屋へ移った。まずは、窓ガラスに掛かるレースのカーテンを撥ね退けて窓を開け、右手を空中へ延ばし、掌をいっぱいに広げて左右に揺らした。雨粒は当たらなかった。すぐに、一基の外灯の照らす道路へ目を遣った。道路は、濡れて光っている。雨の跡の確かな証しである。私の場合、稲光と雷鳴に出遭って身近なもので最も恐れるのは、突然の停電である。停電になればそれを恐れて事前に、パソコンの電源を切るかどうかの判断が迫られる。ところが、私は切らずにパソコンを起ち上げ、この文章を書いている。このところの雨(天水)無しにあっては、「生きとし生きる者」、いや、草根木皮のすべてにいたるまで、いのち枯れ枯れの状態にある。すると私は、矛盾するけれど待ち焦がれていた雨をもたらしてくれた稲光と雷鳴にたいし、それらの代わりに御礼を述べたい心地にある。現在、稲光と雷鳴は止んで、涼やかな夏風と朝風をも恵んでいる。しかしやはり、いっとき身の縮む思いがした8月初日の未だ夜明け前にある。夜が明ければ、予約済の歯医者通いの準備に慌てふためくこととなる。端から休むつもりだった、8月初日の戯れ文である。 7月最終日(31日・月曜日)、清々しい夏の朝が訪れています。ウグイスはいまだに朝っぱらから、高音を囀り続けています。ところが、先日はセミの初鳴き声を聞きました。セミの声に出番を奪われるウグイスの声は、この先、日ごとに切なさを帯びて、やがては夏の朝から消え去ります。それでもウグイスは、セミを妬むことはできません。いやもとより、命短いセミを妬むことは罰当たりです。なぜならウグイスは、半年ほども生存に浴して、もしかしたら再び春の季節を迎えることができます。一方セミはひと夏さえ、いや日数を数えるほどしか、生存は叶いません。セミの命は、短い命の代名詞として、人間界に定番を成しています。ウグイスの高音、そして雨無しの暑い夏、どちらも自然界の営みと思えば、素直に悦び一切腹は立ちません。腹立ちのすべては、自分自身に向かっています。すなわち私は、自分自身に克てず、長い夏休みというより、もう「ひぐらしの記」の継続は止めた! と決め込んで、文章を書かない安楽を貪り続けていました。きのうは老いた妻の手を取り、ひとり娘とひとり孫娘の住む、神奈川県横須賀市浦賀町における「夏祭り見物」へ出かけました。炎天下、神輿担ぎの人たちの力感溢れる姿を観続けていました。すると元気をもらい、この文章に漕ぎつけています。しかしながらまだ、ヨタヨタヨロヨロ気分で、この先は書けません。鳴き続けていたウグイスの声がなぜか、バッタリと途絶えています。切ない相身互い身、なんだかウグイスにエール(応援歌)を送りたい心地です。 古閑さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/* 高橋さん投稿有難うございます。花は、左から、鹿の子(かのこ)百合、サンパラソル、バラ、です。 大沢さん投稿有難うございます。囲碁はそれ程好きではなかったのですが、今では毎日のように地区センターへ行って仲間と囲碁を打っている、何処でどう変わるか分からないものですね。当時、今のように囲碁が好きであれば藤沢先生とも多少囲碁の話ができたかもしれません。 古閑さんの苦い記憶か、懐かしい記憶か、おかしなものですね。呼び出されてサイン入りの著書をいただいても、興味が無ければ宝の持ち腐れですね。その持ち腐れの宝物が、今は古閑さんのかけがえのない趣味になっているのですから。人との出会いもまた不思議なもので、腹が立ってたまらなく嫌な人だったのにもかかわらず、かけがえのない友人になっていたりするのです。だから歳月を重ねて、長い年月を生きてくると、どこでどんな風に変わるかわからないので、悪く思わないように自分に言い聞かせています。 ぼくは、囲碁はまったくわからないのですが、棋聖の藤沢先生から直接サイン本をいただいたなんて、とんでもなく素晴らしい事でしたねーー☆*(^o^)/*☆ 今回の古閑さん邸『庭の花』の画像は、1枚目が百合、2枚目がわかりません、3枚目は牡丹は春の花だと思いますので、芍薬でしょうか?

心地良い「夏の朝」
私も冬は嫌いです
私は寒さが苦手です。子供の頃、豆炭アンカで何度も低温火傷をしました。今でも跡が残っています。しもやけにもなりました。夏に太陽の熱で焼けた庭石に手を当てると、しもやけができないと祖母に言われて実行していると、いつの間にかしもやけにはならなくなりました。
でも、この夏の酷暑では夏も嫌いになりそうです。冬は嫌いです。夏は最と嫌いです。
8月初日
7月最終日
♪古閑さんへメッセージです2♪
花の名前を教えてくださり、重ねて感謝申し上げます。\(^o^)/
3枚目はバラだったのですね!!
バラ1番大好き人間にもかかわらず、間違えてしまい、もうどうしようもありませんね(苦笑)。
毎回『庭の花』の御投稿から勉強させていただいております。
今後も花々の御投稿や古閑さんの周りの出来事の御投稿をどうぞよろしくお願い申し上げます♪♪有難うございます。
本当に不思議ですね
いただいた本はあまり読むこともないと思いますが二度と手に入らないもの。大事にしたいと思っています。ふとしたことで浮かび上がる記憶
話がそれてしまいましたが、画像入りで紹介して下さった古閑さん、ありがとうございます。♪古閑さんへメッセージです♪
よくわからなくて、申し訳ありませんm(_ _)m
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