4月2日(日曜日)、夜明け未だ遠い静寂の中に起き出している。聞こえようのない心音は、確かな鼓動を刻み、私は生きている。しかしながら、意義ある生存かどうかは、知らぬが仏である。だけど、死んでいるより生きていることは、はるかに増しである。頃は良し、日本列島のあちこちにおいて人々は、時を変えて桜見物の真っ盛りのさ中にある。確かに花便りは、芽吹き初めもよし、盛り(満開)もよし、散り際もよし、すべてよしである。今時、桜の花は、口の端に誉めそやされて、賑わう花便りの謳歌を極めている。このところのテレビ画面は、すでに終わりだろうか、今や盛りだろうか、まだこの先だろうか。茶の間のソファに凭れながら、日本各地の桜の花模様(花便り)の画像をかぎりなく堪能させてくれている。こんな好季節にあってマイナス思考にとりつかれメソメソするのは、確かに愚の骨頂窮まるバカ丸出しである。この季節にあって自然界の恩恵は、もちろん桜の花だけではない。百花繚乱、百花斉放のみならず、山紫水明、花鳥風月など、さらには盛りだくさんの四字熟語のオンパレードである。まさしく季節は、春うらら、春爛漫の真っただ中にある。しかしながら、年老いたわが身において厄介なことは、狭小とはいえ庭中に萌え出している雑草取りの手始めがある。雑草という名づけは、雑草には罪なく抜き取る厄介さゆえに付けられた、人間の驕りと言えそうである。なぜなら、雑草とて桜の花に負けず劣らず、ようやく一年回りに健気に芽吹いて、日々背丈を伸ばし、緑を深めている。あえて人間が雑草と呼ばなければ、それなりの美的風景を恵んでいる。それでも草取りをせずにおれないのは、やはり確かな人間の驕りである。すなわちそれは、人間に付随する見栄心のせいである。確かにわが草取りは、道行く人が眺めて(ここは空き家かな?)と思われて、蔑視を受けないための最低限の行為である。ところが年年歳歳、わが草取り行為は難儀を極めるばかりである。やはり、綺麗ごとは抜きにして、雑草呼ばわりしたくなる。起き立てにあって、こんな書き殴りの文章は、もとよりわが恥さらしである。「ひぐらしの記」の継続の支えは、掲示板を開いてくださる人様のご好意と情けすがりである。だから起き立ての私は、その恩情に背くまいと、書き殴りと駄文をも省みず、必死にキーボードに不器用な指先を這わせている。きょうの文章は、まさにその証しである。明けきれない空は、朝日が隠れた曇天、いや今にも雨が落ちてきそうな雨空である。この季節にかぎれば起き立てにあって私は、両耳には難聴用の集音機を嵌めている。もちろんそれは、わが日常生活に朝っぱらからウグイスの鳴き声を味方にしようという、さもしい魂胆のせいである。現在の私は、子どもの頃の早起き鳥(ニワトリ)の声に替えて、山に棲みつくウグイスの声すがりである。もとより二度寝にありつけず、早起きを誘う早起き鳥(ウグイス)の声を、憎たらしいとは思わない。散り急ぐ桜の花と、朝早いウグイスの鳴き声に、わが心身は癒されている。そして季節は、この先晩春へ向かい、咲き誇る花々を変えては、「目に青葉山ほととぎす初鰹」(山口素堂)へと移ってゆく。それゆえ、せっかくの好季節にあって、わが身を儚んでいては大損である。きょうの文章は、起き立ての焦燥感に煽られて、書き殴りの典型である。ご好意と情けに背いて、つくづくかたじけないと、思うところである。時が過ぎて、夜明けの空には曇天をけちらし、まるで寝ぼけまなこみたいな、おぼつかない朝日が射し始めている。それでも、雨・風・嵐去って、自然界の夜明けは、のどかである。