坂本弘司撮影 6月29日(木曜日)、目覚めて、起きて、書いています。のどかに薄く彩雲をちりばめた朝ぼらけが訪れています。きょうから、終わりの見通せない歯医者通いが始まります。なお生きるためとはいえ、いっそう御飯を美味しく食べるためとはいえ、薄弱なわが精神は、不甲斐なく、切なく、悶えています。どうしたのだろう。エールをねだるウグイスはいつもと違って、あえて知らんぷりをよそおい、まだ塒で寝ています。友情か? わが精神力の独り立ちを促しているのかもしれません。ところが私には、友情を感じる余裕はありません。私は、「バカ」に「大バカ」にされたものだと、恨みを募らせています。 六月二十六日から二泊三日で古河の実家を訪れた。到着すると中庭のポリバケツの池の睡蓮の花が出迎えてくれた。クリーム色の花で、まるで私たちを待っていてくれたような開花だった。 私は長年にわたり、たくさんの文章を書いてきた。だから、日常生活の身辺を綴るだけでいい「ひぐらしの記」など、スラスラ書けていいはずである。ところが、それが書けない。わが能力の乏しさには、ほとほと恨めしいかぎりである。矛盾するけれどこの要因は、長年書き続けてきた祟りでもある。単刀直入に言えばその一つは、ネタの書き尽くしによるものである。加えて一つは、長年の書き疲れによるものである。二つと言っても根本的なものであり、それゆえ克服して書き続けることは容易なことではない。いやさらに一つ加えて、三つ目の理由が最も厄介である。それはすなわち、人生晩年における気力の喪失によるものである。気力の喪失を招くことでは、これまた様々な要因がある。最大かつ最も始末に負えないものでは、文字どおり生きるための「生活の疲れ」がある。ところが、この要因には数えること不可能にキリなくあり、これまたわが能力の乏しさでは手に負えない。私は、きょう(6月27日・火曜日)もまた昼間に書いている。ウグイスは、わが背中にエールを送り続けている。網戸から冷たい風が入ってくる。他力本願だが、心が和んでいいはずである。ところが、なんだか心侘しい昼下がりである。終末人生とは、どんなにしゃちほこだって気張っても、もはや光明にはありつけないのであろうか。自己に鞭打つ生涯学習などには見切りをつけて、生きるための「自己奮励」にのみ切り替えなければこの先、身が持たないだろう。昼間書きは時間があるぶん、功ばかりではなく、罪作り(雑念)に憑(と)りつかれること多々ある。 6月26日(月曜日)、味を占めてきょうもまた、昼間に書いている。昼間書きは、ウグイスと時間を共有できるのが一番いいことである。今やウグイスと私は、風貌の醜さにとどまらず、孤独に堕ちた者同士でもある。そのためか私は、ウグイスには親近感深い情愛を持ち続けている。子どもの頃、山中の「メジロ落とし」の囮(おとり)の籠に差すトリモチに、ウグイスが近づいて来た。ところが逃げられて私は、腹いせに「バカ!」と、大声で叫んだ。遊び仲間でウグイスはいつも、「バカ」と呼ばれていた。情愛の深さは、そのとき蔑(さげす)んだ罪滅ぼしでもある。できれば姿を見せてほしいけれど、ウグイスにも隠れていなければならない切ない事情があるのであろう。確かにウグイスの場合は、隠れていてこそ美徳、すなわち美声が際立ち、人間からやんやの称賛を浴びることができる。だから私は、ウグイスのこの切ない事情をおもんぱかり、無理におびき寄せはしない。孤独に耐えて、鳴きたいだけ、山で鳴けばいいのだ。私は、ウグイスからたまわる友情をも感じている。外へ出るとウグイスは、わが背に待っていましたとばかりにエール(応援歌)の鳴き声を、雨あられのごとく奏でてくれる。相身互い身の友情だけに、双方の絆は揺るぎようがない。今朝は目覚めて、5時近くから1時間ほどをかけて、道路の掃除を綺麗に仕上げた。昼間書きの功ありて、途絶えがちだった日常生活のルーチンが見事に復元できたのである。確かに、きのうの昼間書きは、今朝のわが気分を愉快に潤してくれていた。こんな矢先にあって今週からの私には、つらい日常生活が強いられることになる。それは6月29日(木)を一回目として、期限なし(エンドレス)の歯の治療が開始されることである。たぶんこの先、一週置きに予約時間が決められて、私は厳命を受けたごとく神妙にきっちりと、通院を繰り返す羽目になる。先日突然、詰め歯の一つが崩落した。私は慌てふためいて予約を取り、掛かりつけの歯科医院へ通院した。通院期間が空いていたせいかこのときは、主に歯科衛生士(うら若い女性)によるクリーニングが施行された。マスクを免れた目元は、覗き目、とてもうるわしかった。けれど、言葉は残酷だった。「虫歯のところが4か所、増えていますね。治療の判断は、先生がされるでしょう。写真を2枚撮りますから、こちらへどうぞ…」。このあとは主治医・男性先生が、歯と歯茎を診断された。すると輪をかけて、途轍もなく恐怖の言葉を言われたのである。もちろん私には、こののちの治療方針や治療後の出来具合などまったく見当がつかない。それゆえ私は、戦々恐々の面持ちで、梅雨の曇り空の下、渋々トボトボと帰宅した。曇り空は雨を留めたけれど、わが目は容赦なく涙を溜めた。歯の治療はエンドレスとは言えそれでも、いつかは打ち止めが訪れる。打ち止めは夏過ぎて、秋口あたりだろうか。この間の私は、文章を書く気分を殺がれて、治療の経過しだいでは頓挫の憂き目を見そうである。われながら、悲しい予告である。こんな泣き言、ウグイスには言えない。いや言っても、子どもの頃の仕返しに遭って、「おまえは、うすらバカ!」、呼ばわりされるだけだろう。窓の外には梅雨明けみたいな、強い陽射しがそそいでいる。歯医者通いをおもんぱかり、ウグイスのエールにすがる、わが気分は沈んでいる。 6月25日(日)、四囲の窓ガラスのすべてを網戸に変えた。すかさず、ウグイスの鳴き声が「ホウー、ホケキョ」と、頻りに耳穴に入ってくる。騒がしいと言うと罰が当たる。いや、千金はたいても買えない、無償の贈り物である。夏至が過ぎればやがてウグイスは、人の声に「老鶯(ろうおう)」呼ばわりされる。そして、セミが鳴き出せばこんどは、「あれ、ウグイス、まだ鳴いているの?」と、気狂い呼ばわりされる。ウグイスは、まだ鳴きたい声をしかたなく抑えて、鳴き止める。だから、この時期のウグイスは期限付きに余計、人懐っこく鳴き続けるのであろうか。それとも欲深くウグイスは、私に同情と憐憫の情をせがんでいるのであろうか。醜い姿を隠さずにいられないことでは、ウグイスと私は似た者同士である。しかしながらウグイスは、生来、人が羨む美声に恵まれている。この点ではウグイスは、何らの特徴も有しない私より、はるかに長く生きる価値がある。それなのに、セミが鳴き出すとそれまでの恩恵など顧みられずに、翌年の春先まで忘れ去られてゆく。そののちのウグイスの命の成れの果てなど、もちろん私は知る由ない。まるで、盛りの梅雨空を忘れたかのように大空から、のどかな陽射しが空中と地上にあまねくふりそそいでいる。雨に打たれ続けて、小枝を曲げてうつむいていたアジサイは、いくらか背筋を伸ばし、花をもたげて一息ついている。これまで、ほぼ閉め切っていた部屋の中には、網戸からいくらか湿り気を落とした風が通り、沈んでいたわが気分に心地良さを恵んでいる。頭上の風鈴がチリンチリンと鳴り、梅雨明けを待たずとも、いっとき夏気分にひたれている。昼間に文章を書けば、眠気眼と執筆時間に急かされての書き殴りは免れる。それよりなにより、ゆったりとした心の安寧に恵まれる。それゆえに、昼間書きが定着してほしいと思う半面、明け行く空の描写と、厳かな朝の気分を味わうことはできない。どっちもどっち、私は自然界の恵みに生かされている。ウグイスは、暮れ行く頃まで鳴き続けるであろう。お礼返しに庭中に最高等級の米をばら撒いても、コジュケイのようには山から飛んでこない。醜い風貌を持つ、ウグイス固有の孤独な宿命の証しであろうか。鏡面に写るわが醜面を眺めて、私も(隠れたい!)思いを重ねている。ひねくれて、美声を持つウグイスへの憧れは尽きない。梅雨の合間の、のどかな昼間にあって、一コマの戯れの文章を書いてしまったけど、昼間書きの文章の気分は悪くない。 古閑さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/* いつも花の感想の投稿、有難うございます。高橋さんはいつもの投稿から花がお好きなことがよく分かります。3枚目はそのとうりクチナシの花です。 「夏至」(6月21日)が過ぎれば夏が訪れる。夏が過ぎれば秋が訪れる。「立冬」(11月8日)を挟んで冬の季節になると、「冬至」(12月22日)が訪れる。この間の7月には、年齢を重ねるわが誕生日がある。半年ごとの季節のめぐりは短く、毎年、心が急かされている。ところがこの先は、焦る心になおいっそう拍車がかかることとなる。おのずから今より、季節感に浸る気分もまた、いっそう殺がれること、請け合いである。夏至と冬至、この相対する季節用語は、このところとみに私の気分を苛立たせるようになっている。もちろん、かつての私はこんな気分にはならなかった。いやむしろ、この二つには途轍もなく気分が和んでいた。夏至の場合はわが好む夏が近くなり、足早に過ぎてもこんどは、秋の夜長を十分に楽しめる。冬至の場合は、我慢の一冬さえ越えれば、確かな春の季節が訪れる。しかし、年齢を重ねた現在の私は、悠長な気分にはなれずに、こんななさけない心境をあからさまに吐露している。人間心理とはこうも変わるものかと、ひたすら呆れかえっている。梅雨明け間近の昼下がりにあって、穏やかな気分になれず、「夏至」が過ぎて苛立つわが嘆きである。確かに、季節の速めぐり感に脅かされて、齷齪(あくせく)するのは愚の骨頂、トコトン馬鹿げている。しかし、人生晩年においては避けられない、人ゆえの切ないさだめである。寝起きとは違って昼日中に、再び「夏至」にちなんで書き留めた文章である。 今回の花々も素晴らしいです♪♪♪
朝
望月窯だより
畑の野菜たちもそれぞれに成長していて、食卓を賑わせてくれた。里芋の葉が伸びていた。サツマイモ(べにはるか)の苗も順調に育っていた。蔓が出てくれば切って植えることが出来るが、まだ時間がかかりそうだ。
草取り、木々の剪定など仕事は山積みだけれど、ウグイスが人恋しかったのか、近くまでやってきて、一日中鳴いていた。先回訪れた時には、雉の鳴き声と羽ばたきが聞こえていたが、もう時期が過ぎたようで、今回は聞こえなかった。
帰宅する日の朝、庭に出ると水道の蛇口の口先に若葉のような緑色のキリギリスが止まっていた。「水を飲みに来たのかしら」と一人呟いて指先で触れてみたけれど飛び立つ気配がない。見事な卵管があり、卵を産み付けたりしたら困るなと思いどかしておいた。再びそばを通りかかるとまた戻ってきている。よく見ると、脱皮している最中だった。初めてのことで、蛇口にぶら下がっていたのは、「水を飲みに来たのではない」ことがわかって、どかしたりしてごめんなさいと謝った。脱いだ薄皮が上の方にあったので、どうやら無事に脱皮できて良かった。昼間書きの迷い言
ウグイスのエールにすがるわが人生
昼間書きの文章
♪古閑さんへメッセージです♪
3枚目画像、クチナシでなによりでした♪
各花の名前も教えてくださり、本当にありがとうございます。
ねむの木の花は、”不思議な花”だったのですね!!
たいへん勉強になりましたo(^-^)o高橋さんへ
1枚目はアガパンサス、2枚目はねむの木の花です。
ねむの木の花は、不思議な花で2、3日ですぐにしおれてしまいますがその下には蕾ができていて1,2カ月位咲いています。「夏至」における嘆き
♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪
3枚目はクチナシでしょうか?
掲示板
