昼間書きの文章

6月25日(日)、四囲の窓ガラスのすべてを網戸に変えた。すかさず、ウグイスの鳴き声が「ホウー、ホケキョ」と、頻りに耳穴に入ってくる。騒がしいと言うと罰が当たる。いや、千金はたいても買えない、無償の贈り物である。夏至が過ぎればやがてウグイスは、人の声に「老鶯(ろうおう)」呼ばわりされる。そして、セミが鳴き出せばこんどは、「あれ、ウグイス、まだ鳴いているの?」と、気狂い呼ばわりされる。ウグイスは、まだ鳴きたい声をしかたなく抑えて、鳴き止める。だから、この時期のウグイスは期限付きに余計、人懐っこく鳴き続けるのであろうか。それとも欲深くウグイスは、私に同情と憐憫の情をせがんでいるのであろうか。醜い姿を隠さずにいられないことでは、ウグイスと私は似た者同士である。しかしながらウグイスは、生来、人が羨む美声に恵まれている。この点ではウグイスは、何らの特徴も有しない私より、はるかに長く生きる価値がある。それなのに、セミが鳴き出すとそれまでの恩恵など顧みられずに、翌年の春先まで忘れ去られてゆく。そののちのウグイスの命の成れの果てなど、もちろん私は知る由ない。まるで、盛りの梅雨空を忘れたかのように大空から、のどかな陽射しが空中と地上にあまねくふりそそいでいる。雨に打たれ続けて、小枝を曲げてうつむいていたアジサイは、いくらか背筋を伸ばし、花をもたげて一息ついている。これまで、ほぼ閉め切っていた部屋の中には、網戸からいくらか湿り気を落とした風が通り、沈んでいたわが気分に心地良さを恵んでいる。頭上の風鈴がチリンチリンと鳴り、梅雨明けを待たずとも、いっとき夏気分にひたれている。昼間に文章を書けば、眠気眼と執筆時間に急かされての書き殴りは免れる。それよりなにより、ゆったりとした心の安寧に恵まれる。それゆえに、昼間書きが定着してほしいと思う半面、明け行く空の描写と、厳かな朝の気分を味わうことはできない。どっちもどっち、私は自然界の恵みに生かされている。ウグイスは、暮れ行く頃まで鳴き続けるであろう。お礼返しに庭中に最高等級の米をばら撒いても、コジュケイのようには山から飛んでこない。醜い風貌を持つ、ウグイス固有の孤独な宿命の証しであろうか。鏡面に写るわが醜面を眺めて、私も(隠れたい!)思いを重ねている。ひねくれて、美声を持つウグイスへの憧れは尽きない。梅雨の合間の、のどかな昼間にあって、一コマの戯れの文章を書いてしまったけど、昼間書きの文章の気分は悪くない。