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大沢久美子撮影

すでに、84歳

7月16日(火曜日)。「海の日」を含む、三連休明けの夜明けを迎えている。雨降りではないものの、曇天の梅雨空である。きょうにあってふるさとは、7月盆の送り日(火)である。現在、わが生家を守るのは、亡き長兄の長男(甥っ子)とその奥方である。この二人が守っているかぎり、わが心中のふるさと観とふるさと慕情は、尽きることはない。このこともあってきのうの私は、LINEメールで二人にたいし,事前の墓掃除とお盆における、すなわち二度にわたる「迎えと送りの墓参り」をねぎらった。きのうの文章を再び繰り返すと、お盆の最中のきのう(7月15日)は、わが誕生日と母の祥月命日が重なる日でもあった。毎年訪れるこの重なりは、自分的には奇跡とも思える悲しい日であり、あるいは一層うれしい日でもある。さらには盆と重なり、わが誕生日にあっての母は、風雨に晒される野末の石塔(墓)から、4日間の限定にすぎないとはいえ、わが家に帰ってくるからである。しかしながら母は、姿無き御霊として仏壇に祀られ、無言で居座っているにすぎない。仏壇のある座敷には数多くの盆提灯立ち並び、さらに何本かは天井から下がり、仏壇にはロウソクの火が灯り、線香の臭いがしていたはずである。母の生存中にあって、母が取り仕切っていたよみがえる盆の原風景である。きのう私は、年齢を一つ加えて84歳になった。たった一つだけにすぎないのに84歳になると、まるで大きな岩石みたいに重くわが心身を脅かしている。挙句、このときから私は、極度の寂寞感に苛まれている。それゆえにきょうは寂寞感に負けて、端から文章を書く気が殺がれていた。ところがそれを覆していただいたのは、高橋弘樹様から賜った「祝、誕生日メッセージ」である。高橋様にかぎらず人様からさずかる善意を無為・反故にすれば、私はもはや「生きる屍」である。時の流れは年数を加え、人の命は年齢を加えてゆく。つれて確かに、寂寞感はつのるけれど、じたばたしてもしようがないと、思うしかない。きのうの私は、日本列島のあちこちに住む甥っ子と姪っ子にたいして、こんなLINEメールを送信した。「きょうは84歳の誕生日です。自分お祝いのために、今、独りで、鎌倉市大船の街のお店で、童心に返り大好きな千円かき氷を食べています」。1000円のつもりで注文したかき氷はなぜか? レジでは1210円を払わされた。かき氷の美味しさは、子どもの頃の「相良観音様」の参道で、5円硬貨を払って食べたものに負けていたのである。

㊗︎前田静良氏ハッピーバースディ㊗︎

前田さん、お誕生日おめでとうございます。
心よりお祝い申し上げます㊗︎㊗︎

早朝の道路清掃、1時間半もたいへんお疲れさまでございました。
ぼくは、家では家庭用として30リットル、仕事では業務用として、90リットルの透明袋を使用していますが、前田さんの清掃では、70リットルの袋がいっぱいになるなんて、相当量の落ち葉ですね!!
本当にお疲れさまです。

前田さんの善行は、前田さんの御母様も御釈迦様も御覧になっています。
必然的に行ないの善い方は、長寿が授けられますので、一般的な平均寿命に惑わされる事なく、☆前田さんの我が道☆を突き進んでいただきたい、と思っております。
祝膳も今後、機会がある毎に、前田さんの周りの方々より用意される事と思います。
用意されない場合は、ぼくが主催しても構わない、と思っております(笑)。

リアルタイムで投稿できずに、たいへん申し訳ございませんでしたが、ぼくからの前田さんへのお祝いの言葉とさせていただきます。

嗚呼、きょうから84歳

令和6年(2024年)7月15日(月曜日)。「海の日」(祝休日)にあって、三連休の最終日である。きょうはわが84歳の誕生日であり、重ねて母の何回目かの祥月命日でもある。今、身体のあちこちには、ヌルヌルと汗が溢れている。1時間半ほどの道路の掃除を終えて、駆け足で戻りパソコンへ向かっている。早起き鳥(ウグイス)に急かされることなく、5時前に目覚めて道路へ就いて、掃除を終えてきたのである。このところの雨のため、掃けずにいた道路を懸命に掃き清めると、70リットル入りの透明袋に落ち葉がいっぱいになった。散歩に回る何人かの人は、「大変ですね。ご苦労様」と、言ってくれた。他人様の言葉と優しい心根が、重たい気分を解した。きょうは雨上がりの道路の掃除を優先したため、この先、文章を書く時間はない。そのため、誕生日にちなむ文章は書かずに、やむなく結び文とするものである。きょうには、誕生日にちなむ祝膳の予定はない。きのう食べた買い置きの「鹿児島産ウナギ」が祝膳の代わりを成していると思えばいいからである。ただ心残りは、「ふるさと・内田川」で獲れたウナギであればと、思うところである。草葉の母は、わが84歳の誕生日を知ることはない。残念きわまりない。

やっぱり、そうでしたか。

 下段の右奥の紫色の花はやはりミソハギだったのですね。そうかなと思っていました。この花は、盆飾りで使います。束ねてハスの上に載せた細かく切ったナスの上に、その束に水を含ませて振りかけるのです。私の家では八月盆なのでミソハギの花は終わってしまっていることが多くて、今は省略してしまいます。
 古閑さん、お花の名前を教えて下さり、有り難うございます。

 月下美人

 大沢さん、月下美人きれいに咲いています。花は良い香りがするそうですが翌日はしぼんでしまうのが一寸残念です。
 大沢さんはやはり花がお好きなだけあってよく花の名前をご存じですね。参考まで全部の名前を書いておきます。
 上段左から、ヒオウギ、ムクゲ、フロックス。 下段左からダリア、オイラン草、フロックス、奥の紫色はミソハギです。

☆大沢先生へメッセージです☆

☆月下美人☆ついに開花しましたねーー☆*(^o^)/*\(^o^)/☆
途中までの画像ですが、綺麗です☆
先生、夜遅くまでの開花のお付き合い、たいへんお疲れさまでございました。

古閑さんちのお庭

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うっとうしい梅雨の時期にあっても、花々をながめていると元気が出ます。ヒオウギ、ムクゲ、オイランソウ、ダリアでしょうか。夏の花はたくましく感じられますが、私の思い込みでしょうか。
 昨夜は睡魔に襲われながら十時まで月下美人の開花に付き合いましたが、全開まで見ることはかないませんでした。

よみがえる「ふるさと盆」の追想

7月14日(日曜日)。ふるさとは「7月盆」の最中(さなか)にある。起き出して、「お盆」の追想に耽っている。それぞれの御霊を浮かべている。今や、ただひとり生きているわが務めである。まぼろしの墓(前田家累代の墓碑)は、わが心中に建っている。盆にかぎらず春・秋の彼岸、あるいはときどきの墓参りの原風景は、こうである。母は「墓参りに行くばい…」と言って、決まって私を連れだした。墓参りどきの母は、野良仕事の普段着から、いくらか見栄えのする装いに替えていた。たぶん母は、道すがらに出遭う人様にたいし、気兼ねをしていたのであろう。わが子どもの頃、すなわち生家の当時の行政名は、熊本県鹿本郡内田村だった。現在の行政名は、熊本県山鹿市菊鹿町である。ふるさと言うにはやはり、内田村こそしっくりする。熊本県の北部地域に位置し、熊本、福岡、大分と県境を分け合う尾根に囲まれた内田村は、山囲いの盆地を成していた。もちろん、今なお変わらない。当時の村人のほとんどは、農業と山林の上がりを生業にしていた。何らかの仕事を兼ねていても、生計は主にそれらの上りにすがっていた。農家は狭隘な田畑、さらには家畜(牛馬)の入れようのない鍬や鎌頼みの段々畑にすがっていた。もとより、村人の生計は、自給自足を旨に営まれていた。山林へ向かう人の仕事とて、炭焼き、椎茸作り、筍(たけのこ)の掘り出しくらいで、実入りを増やす大掛かりな山働きなどなかった。それでも、村中には製材所が一軒あったから、その仕事にたずさわる人達だけは、本業として山に入っていたのかもしれない。馬車引きさんは二人ほどいた。往還(県道)には「産交バス」(九州産業交通)が定時に往復し、ときたま「〇通(丸通)」(日本通運)のトラックが走っていた。乗用車(自家用車)は見ることはなかったけれど、のちにわが家のかかりつけの「内田医院」(内田医師)」の自家用車が登場した。村中のあちこちには、よろず屋風の「なんでんもんや」の店があった。小学校と中学校(内田村立)の位置する村の中央の堀川地区には、内田医院、村役場、駐在所、文房具店、酒屋、鍛冶屋、精米所、畳屋などがあった。村中は地区ごとに、小さな集落(名)を成していた。わが生家は、「内田川」べりの「田中井手集落」に位置していた。墓は内田川から離れて、歩いて片道20分ほどの「小伏野集落」の小高い丘の上にあった。それは、父の生誕地が小伏野集落だったことに起因している。父はのちに、水車を回して精米業(所)を営むために、田中井手集落へわが生家を構えていたのである。内田医師、そしてふうちゃん地区の「原集落」の相良医院(相良医師)、ほか「谷川医院」(谷川医師)を除けば、村中の公務員(役場人や学校の先生)を含めて村人たちは、農家を兼ねて暮らしを立てていた。母が私を連れ立つ墓参りは、いつもこうだった。母は縁先のちっぽけな花壇から、自然生えみたいな草花を摘んだ。それを古新聞で束ねた。大きな薬缶にはたっぷりと川水を入れた。火付けには、大きなマッチ箱を用意した。封切らずの線香の束を携えた。私は薬缶を手提げた。野末の墓には、絶えずそよ風が吹いていた。墓標を水で浄めて、置かれている茶碗の汚れは指先でぬぐい取り、両脇の花入れには持参の花を挿げた。これらが済むと、マッチを取り出し、古新聞に火をつけた。火を線香へ移すと、燻る火を足で踏んづけて消し去った。線香立ての線香の炎がゆらゆらと空へのぼりはじめた。母は「さあ、参ろうかね…」と、言った。「うん」。私は応じた。二人は並んで腰をかがめて、墓標に向かって深々と合掌した。雨のため道路へ向かえず、時間があることをいいことにして、長々とこんな文章を書いてしまった。つくづく、かたじけない。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

こちらもさいたま市も両日、わりあいに涼しかったです(^^)
今回の花々もお手入れがじゅうぶんに行き届いていて、素晴しく綺麗ですね♪♪♪♪♪♪
もう☆古閑植物園☆といった感じです☆☆☆☆☆☆