人生行路には、数々の大小の岐路が訪れる。大袈裟すぎて言い換えれば、日暮らしにあってもしょっちゅう、なんらかの岐路が訪れる。岐路とは文字どおり、本道から逸れる分かれ道である。実際には本道を歩いていて、岐路(分かれ道)に差しかかる場合が多い。分かれ道が何本もあれば立ち止まり、どちらの道を選ぶかという、咄嗟の決断(選択)が必要となる。選択を誤れば仕方なく岐路(分かれ道)へ戻り、新たな決断(選択)をしなければならない。繰り返すと岐路とは、進む道の分かれ道である。人生行路にとっては、極めて大きな分かれ道である。机上に置く電子辞書を開いて、語句の復習を試みた。
【篩(ふるい)】:「粉または粒状のものをその大きさによって選り分ける道具。普通、曲げ物の枠の底に、馬の尾・銅線・絹・竹などを細かく格子状に編んで作った網を張ったもの。とおし」。
私にはこんなたどたどしい説明文は必要ない。なぜなら、農家出身の私は、篩は日常茶飯事に目にし、実際にも家人や、家事手伝いのおりの私は、篩を用いていたからである。このときの私たちは、傷物と無傷のものとを選び分けをしていた。そのとき用いていた篩は、おおかた枠が円いものだった。もちろん、枠が正方形のものや、長方形のものもある。大きくて長方形の篩は、花壇づくりの土の選り分けなどで見かける場合がある。篩を含む成句としては、「篩に掛ける」、「篩い落とす」などが、日常語として用いられている。
篩に掛けて、篩い落とされるものが人であれば、泣くに泣けない哀れ者となる。しかし、人の場合は、捨てられることはない。篩い落とされないようにするには、ただしがみつくだけでは無駄な抵抗である。そうならないようにするには、不断からかなりの努力をしておかなければならない。雑穀の場合は、選り分けて傷物は、おおかたその場で捨てられる。しかし、人の場合は捨てられることない。しかしながらいっときは、捨てられた気分になる。それは、岐路や選択(試験・テスト)についてまわる宿命である。
きょう(1月13日・土曜日)は、あすと二日間にわたる令和6年(2024年)の「大学入学共通テスト」の一日目(初日)である。日本列島の地域によっては、あいにく降雪予報が出ている。受験生が、受験へ向かう交通機関は大丈夫だろうか。「能登半島地震」における被災地区の受験生は、大きなハンデイキャップを負って、テストに臨むこととなる。試験・テストには必定、限られた合格枠に競争相手がいる。だれかかが篩い落とされることには忍びない。けれど、判官贔屓のごとく、出足をくじかれている受験生の奮闘を願うところである。人生行路は、岐路多い茨道である。