1月12日(金曜日)、新年も早や、中旬へめぐっている。春待つ心も老齢の身には、翳りと澱みをおぼえている。わが2か月余の怠け心を、カレンダー上の新年の「仕事始め」にことよせて捨て去り、私は再始動を試みている。そして、ヨロヨロと1週間(7日)繋いでいる。しかし、「惰性にすがる継続」は心許なく、未だ闇の中である。
きのうの「鏡開き」にあっては案の定、餅入り雑煮にはありつけず、予想どおりに買い置きの「ナス入り味噌汁」が運ばれてきた。文句はご法度に、笑顔で「ヨシヨシ」と、ハミングしながら食べた。私は、野菜にあってはナスが一番の好物である。汁に浮かぶナスの姿とは生身には程遠く、小さくぐにゃぐにゃとしわがれた乾物だった。それでも、ちょっぴりナスの舌触りにありつけた。
さて私は、新年の上旬10日間にあって二度までもわが家から遠く、鎌倉市街にある「鶴岡八幡宮」(以下八幡宮)へ歩いて行った。このことはすでに文章のネタにしており、二番煎じとなる。記述の一部を繰り返すと一度目は、車と人の行き交う古来の「鎌倉街道」を歩いた。二度目は、わが家からすぐに上れて近道の、山中の「天園ハイキングコース」の一部を下った。着いたところはどちらも、初詣や参拝客がごった返す八幡宮である。
生前のわが父は、子どもの私に常々、判官贔屓で源義経のことを話した。現代風に言えば父は、わがトラキチ(気狂いのタイガースファン)さながらの「義経ファン」だった。判官贔屓は、よくもわるくも高じていた。なぜなら父はわが名には、白拍子(遊女・現代の芸妓か?)にもかかわらず、「静御前」(義経の愛妾)から一字の「静」を拝借し、その下にわが兄弟の符号とも言える「良」を加えたと、言っていた。このことでは鎌倉にわが終の棲家を構えて、かつ八幡宮との出合は、わが身に余るうれしい奇跡でもある。それゆえに八幡宮への親しみはいっそう増して、参道を踏むたびに父の面影が髣髴とする。うれしくて、わが心が和むひとときである。
だからと言って不断の私は、八幡宮にかぎらず、神様頼みのみならず、仏様すがりは一切無縁である。この理由は、神仏とは名ばかりで、小さい願いさえ叶えてもらえず、まったくあてにならないからである。ところが一方、参道や境内は老若男女相集う、娯楽場と思えば楽しめるところはる。奇麗に玉砂利が敷かれ、鳥居や神殿は朱で塗られ、周囲の木々は神々しい雰囲気を盛り立てている。あちこちに立ち並ぶ屋台もまた、祭り仕立てで人出の盛り上げ役をになっている。
私の場合、二度の八幡宮行きは初詣やお参りではなく、三が日に鈍った足慣らしが目的だった。ところが多くの参拝客は、近郊近在から押し寄せて、初詣と神様頼みのお参りのようだった。賽銭の投げ入れだけでは心細いのか多くの人たちは、おみくじを引いたり、絵馬を買ったりしていた。全景が見えないほど大きな賽銭箱は底深く、硬貨にかぎらずあまたの紙幣を呑み込んでいた。神心をもたない私は、賽銭箱の中のお金の胸算用を試みていた。お参りや賽銭投げ入れの光景は、八幡宮にかぎらず日本列島津々浦々の神社仏閣で行われていたはずである。
明けて、日本列島の十日間は、あちこち震災、あまたの災難に遭っている。それでも神仏の施しはなく、かぎりなく無情である。神仏と崇められて、元手要らずにかき集めた賽銭だから、震災の被災地や被災者にたいして、先頭切って施していいはずである。ところが、それらのニュースは一切聞かずじまいである。神様、仏様へ、お願いします。「賽銭をむしり取るばかりではなく、お隠れにならないでください。堂々の施しの出番ですよ!」。
日本晴れの夜が明けている。神仏の無情とは違って、こちらは無言で無償の恵みである。