ああ、人間!

 元日に起きた「能登半島地震」(石川県を中心に多大の被災)の惨状はあまりにも酷すぎて、日本国民の悲しみは極限状態にある。悲しみの癒えるめどは、未だにまったく無い。無情にも時は悲しみを置き去りにして、日々春へ向かって移りゆく。震災現場にはときには雪がちらつき、また、北陸特有の日本海のもたらす寒気が襲っている。テレビが映し出す惨状を観るだけでもこの光景には、万物の霊長と崇められるゆえの、人間の悲しさとつらさが付き纏う。それなのに、被災の人たちへの支援は、遅遅として進まない。これまた、人間ゆえの限界であろうか。特にわが身は、犬の遠吠えのごとくに何らの役立たずで、無事を祈るしか能はない。ただただ、悲しく、わが身が哀れである。
 ところが私は、まるでこんな心境が嘘ごとのように、能天気に文章を書き始めている。きのうの「成人の日」を含む三連休が明けて、多くの人たちはきょう(1月9日・火曜日)あたりが、新年の仕事始めであろう。なぜなら私の場合も、実際のところはきょうを初日にして、新年の日常生活が動いて行くこととなる。現在の私は、職業はもとよりささやかな社会活動(ボランティア)さえ無縁にある。やることは唯一、この先を生きるための活動だけである。これに加えて望むことは、叶わぬことと知りながらも、無病息災の日暮らしである。
 卓球クラブが存在する「今泉さわやかセンター(鎌倉市)」内には、新年にあって七夕飾りを真似て、短冊が下がっていた。その下には無地の短冊や小筆が置かれ、こう書かれていた。「新年にあって、あなたの望むことを自由に書いて、吊るしてください」。吊るされていた短冊の多くには、ずばり「この一年が、健康でありますように……」とか、あるいはこれに類する語句や言葉が書かれていた。私はもっとズバリに、「今年中には死なないように……」と、書いて吊るした。実際に浮かべていたのは、「ことしもタイガースが優勝してほしい……」というものだった。けれど、センター内にはジャイアンツファンが多いゆえに、これはわが心中だけに吊るし、あえて健康を望むみんなの仲間入りをした。
 きのうの成人の日は、麗らかな春日和だった。思いだったが吉日、私は鶴岡八幡宮行き(6日)をこの日、再び敢行した。私はあてにならない神頼みに硬貨(10円)を投げ入れて、二度も願う馬鹿ではない。実際のところは正月三が日におけるカタツムリのように動きのない生活、さらには七草粥も無縁に過ぎたことによる、戒めの散歩代わりだった。
 鶴岡八幡宮までたどったコースは変えた。6日の場合は、車および人の行き交う王道の鎌倉街道を歩いた。ところがきのうは、山中道の「天薗ハイキングコース」の一部を下った。久しぶりに踏んだ山中道は、想定外に荒れていてとことん難渋した。しかし、歩く老身に降りかかる暖かい木漏れ日は、こよなく老心を癒した。山中道は近道でもあり、鎌倉街道行に比べれば、歩数と距離を三分の一ほど縮めてくれる。安きに身を置いて、身体解しの目的からはかなり外れて、かなり損をした気分だった。
 ところが、境内へたどり着くとたちまち、損な気分は十分取り返された。私は、「牛タン」の幟はためく屋台前に立ち並び、700円を前渡し、焼き立てほやほやの牛タン串(大玉の6連)をもらい、日陰を避け日向を選んで頬張った。突っ立て、食べながら参道を眺めていた。わが目は、綺麗な日本髪と和服姿の二様を捉えていた。一つは、お父さんとお母さんの手に繋いだ「七五三参り」の姿の七歳くらいの女の子だった。一つは、なり立ての新成人(20歳)の初々しい晴れ姿だった。
 きょうの文章は、きわめて不謹慎だったのかもしれない。だから私は、「能登半島地震」の余震の鎮静と、被災地の早い復旧、さらには被災者の安寧を願っている。もちろん死者には、哀悼の黙祷を捧げている。始動はじめたわが日常生活にあってきょうあすは、病院通いの連チャンである。鎌倉地方の日本晴れが切ない。