遡上して来た生来の怠け心を断つため、継続の当てはなくも意を決して、書き始めた文章は3日目を迎えている。きょう限りであすへ繋がらなければ、文字どおり三日坊主の汚名がよみがえる。もちろん、この汚れは撥ね退けたい。しかしながら、三日坊主と意志薄弱は共に抱き合って、とうとうこれまで修復できずじまいになって来たわが悪癖である。これらのことを思えばあすのことであっても、不安はいや増すばかりである。確かに、あすのことはわからない。だけど、きょうのことだけはわかる。何がなんでも、何でもいいから、きょうは書かなければならない。こう、自分自身に誓っての、パソコンの起ち上げである。
こんなことでは用意周到の題材などあるはずはなく、端から文章の出来など望めない。書き殴りでどうにか文尾までたどり着けば万々歳、わが誓いと決意に適うことになる。ただ、夜明けも近くなり、朝飯の準備も迫っている。殴り書きに加え走り書きとはいえ、ただただ焦燥感がいや増している。
人生行路を手近なもので模すとすればそれは、車両繋ぎの汽車、列車、電車が適当である。私の場合、完全なるふるさと巣立ちの上京は、大学入試の合格を得て、新たな決意を固めてわが家の門口を離れた、昭和34年(1959年)の3月のある日だった。今は亡き長兄に、「熊本駅あるいは上熊本駅」で見送られて私は、暮れなずむ夕方、当時の国鉄・東京行き夜行寝台急行列車へ乗った。互いは別れの手を振り合い、双方の体が見えなくなるまで、あふれ出るままに涙を流した。
乗車した汽車は、熊本駅始発の東京行き「急行阿蘇号」か、もしくは西鹿児島駅始発の東京行き「きりしま号」だった。ただ、どちらだったという、記憶はない。5時近くの発車のベルに急かされた汽車は、明くる日の午前11時近くに、東京駅のプラットホームに滑り込んだ。ふるさとからの巣立ちは、はるかな長旅であった。このときの私に、日記を書くことや、メモを取る習慣でもあればと、今になってとことん悔やまれるところである。
白煙いや黒煙をたなびかせる機関車が、後方にいくつの車両を繋いでいたかも、知らないままである。もちろん、わが車両番号(先頭から何両目)など、記憶にあるはずもない。東京へ向かって次々に駅名が現れては、また新たな駅名に出合った。いやおうない、わが生涯果てまでの未知の旅だった。夕方の日のあるうち、明けて朝日が輝きを増すなかにあって、私は流れてゆく車窓の風景をじっと見つめていた。夜行寝台急行列車は、このときが乗り収めであった。
わが東京行き通勤電車は、「JR北鎌倉駅」で乗車の「JR横須賀線」だった。今や、記憶遠のく過去物語である。当時の横須賀線の車両編成は、現在と変わらず15の車両を繋いでいる。この中で毎朝私は、ほぼ決まって同じ番号の車両に乗っていた。しかしながらそれが、何両目だったかの記憶はない。
冒頭に返れば人生行路は、汽車、列車、電車などに模せられる。ところが明確に違うのは、こうである。すなわち、人生行路の車両は、選びようない最後尾の15両目である。視覚はメガネ(近眼・老眼ダブル修正)、聴覚は安価な集音器では飽き足らず、旧年末に高価な補聴器へ買い換えている(50万円弱)。頭脳、知力は、日々劣化を極め行く。挙句、肝心要の命は、プラットホーム間近である。