夜明け前の「迷い言」

 もはや、恥も外聞もない。短く、ガラクタでもいい。もちろん、雑文と罵られても構わない。ちょっとだけでも、文章を書こう。それでも、大きな前進である。こういう心境できのうの私は、文章を書いた。旧年の十月二十五日の文章を書き止めにして、新年の正月三日までの間、私は文章書きの沙汰止みを続けていた。言葉を用いればまさしく、頓挫、挫折の憂き目をこうむっていた。この間の私は、三度の食事はもとよりきっちりと食べ、加えて間食には駄菓子を鱈腹食べるだけの、「生きる屍」状態に陥っていた。わが魂は病みを超えて、まさしく惻惻状態にあった。しかし一方まだ、これではまずいという、一縷の魂の滴は悶々として残っていた。僅かにこれだけが、まだ生きている証しだったのである。
 きのうは新年の「仕事始め」の日でもあり、さらには新年の挨拶がわりに書き易いこともあった。それゆえにこのことを幸いにして私は、わが萎えていた心身に鞭打ち、文章を書いてみようと決意した。ところがそれは、あからさまに学童の頃の「綴り方教室」の心境に似ていて、心中には覚束なさが充満していた。一方で、書き終えた気分はさわやかだった。なぜなら、止まっていた文章が書けたからである。頓挫、挫折中の私は、まったく文章が書けなかった。いや、まったく書く気にならなかった。だから、書いたことだけは前に言う「大きな前進」であったのである。
 私の文章書きは常々、惰性に乗っかっている。言うなれば惰性こそ、わが文章書きの助け、救い神である。無理矢理わが意を添えれば、私の場合の「惰性」とは、いま世間に持て囃されている「ルーチン(routine)」と、似ているところがある。スマホの語句調べにさずかり、ルーチンを覗いてみた。「ルーチン:習慣的・定型的な手続きや仕事のこと。日課。定常処理」。つまり、わが文章書きはルーチンとは言えず、なり得ず、似て非なるいたずら書きの惰性にすぎない。ところが私は、惰性にすがっている。しかしながら、こんな文章を何日か書き続けているうちに、ルーチンまではならずとも、かつての惰性が蘇れば儲けものである。ただ、恐れることには私は、生来の怠け者、三日坊主である。だから私には、惰性さえ定着の望みはない。二か月余の空白は、その確かな証しだった。
 書き殴りに甘んじていまだに私は、早くなりはじめている夜明け前の暗闇の中にある。(4:37)。