切ない「卓球クラブ」

 きのう(9月20日・水曜日)は妻の骨折入院以来、長く休んでいた卓球クラブの練習に出向いた。出かけるときの私は、まるで浦島太郎みたいな気分だった。しかしながら、すぐに馴染んで気分は解れた。茶の間に居座って、妻とだけ向き合っているより、気分直しになることを実感した。このことでは半面、妻に対し、すまない心地になっていた。だから今度は、妻の場合卓球はできなくても仲間との語らいに、妻を引率同行しようと思った。もちろんこれは、私同様に妻の気分直しのためである。妻に対する、配偶者の無償の情けでもある。やはり人間は、他人様との出会いや会話の渦に巻き込まれてこそ、エネルギーが満ちて、気分は和んでくる。久しぶりのわが実体験による、尊い実感であった。
 妻もまた、卓球が好きである。しかし現在の妻は、卓球クラブはもとより外出行動がままならず、茶の間暮らしに明け暮れている。幸いにも妻は、茶の間でテレビ視聴が大好きである。ところが、これには会話がともなわない。会話がなければ、適当な言葉探しや、脳髄の緊張感ある働きは必要ない。これらのことから人間にとって緊張感は、生きるための必要悪だと、あらためて実感するところがある。すなわち人間は、のほほんと暮らせば、のほほんと老いるばかりである。その証しに通い詰めの常連の仲間たちはみな、明るく溌溂と生きていた。とりわけ女性連の元気良さは、男性連をはるかに凌いで、際立っていた。男性に比べて女性の平均寿命の長さを、如実に感じた一日だった。
 秋には、何かにつけて冠がつく。わがことで先陣を切ったのは、先日の「食欲の秋」だった。するときのうは、小さな「スポーツの秋」と、言えそうである。この先、いろんな冠の秋に出合えそうである。しかし、わが身には「芸術の秋」は無縁である。