秋彼岸の入り日

 9月20日(水曜日)、薄く夜明けが訪れている。七日間の先頭を切り、秋彼岸の入り日にある。人間の体に沁みる気候は、春夏秋冬の中でもこの頃が、最も肌触り良く、凌ぎ易いと思えている。この間に天変地異がなければ、この上ない天恵と言えそうである。しかしながら、天災をはじめ人の世に起きる災害や災難は、一寸先は闇の中にある。だから、ゆめゆめ油断は禁物、心して日々を暮らさなければならない。
 油断を諭す広範な戒め言葉には、「治に居て乱を忘れず」という、先人の教えがある。ネタのない文章の書き出しは、この先の文章とはなんらの脈絡もない。
 きのうの文章でちょこっと書いたことの結末、すなわち生栗のレシピは、手軽な茹で栗だった。茹で栗であればあえて、病の妻の手を煩わすこともない。私は小鍋に「ふるさと便」で届いた栗を入れて、水をたっぷりと浸した。そして、大相撲の制限時間を伝える時計係の真似をして傍らに居続けて、きっちり45分間で茹上げた。この間、二、三度、大型のスプーンで掬い、包丁で割っては口へ運び、茹で具合を確かめた。最後は、(よし、よし)とみずから納得し、レンジの火を止めた。ここまでは、万事OKである。
 ところが、肝心要の食べどきに往生した。なぜなら、現在の私は、入れ歯の型取りが済んでいるところであり、実際に新たな入れ歯ができるのは次の通院日(9月25日・月曜日)である。歯が丈夫、すなわちかつてのわが茹で栗の食べ方は包丁など使わず、山からわが庭に入り込むリスの食べ方同様に前歯でガリガリ齧り、こじ開けてはムシャムシャと食べた。ところがきのうは、茹で栗を包丁で割って、二つに分けた。その挙句に小型のスプーンで削り取り、少しずつ口へ運んだ。もちろん、それなりに美味だったけれど、味気ない食べ方だった。このときの私は、食べ物の美味しさは、歯の健常あるいは毀傷に左右されることを実体験したのである。
 この頃の若い人たちは、果物をあまり好まないという。この理由には、果物の皮を剝くのが苦手、面倒ということがあるようである。確かに果物、身近なもののすべてには皮がついている。例えば、林檎、柿、梨、桃、栗、など皮つきである。蜜柑も皮つきだが、これだけは皮むきに包丁は要らず、指先で容易である。皮むきが面倒で、果物嫌いになるのはもったいないというより、とことん贅沢である。たぶん現在は、身近なところに果物に代わる、市販の好物の食べ物(食品)がワンサとあるせいであろう。
 わが子どもの頃の食生活は、おおむね自給自足で賄っていた。これらの中にあってわが家の場合は、柿、梨、栗は、特等の果物であり、おのずから皮むきは手慣れていた。現在の私は、そのころの体験のご褒美にあずかり、果物好きは高じて「不治の病」さながらである。
 なんら脈絡のない書き殴り文は、ここで締めたほうが身のためである。彼岸の入り日の夜明けは、のどかな曇り空である。天変地異がなければ、これで十分良し! の夜明けである。