冠の秋、到来

 きのうの「敬老の日」(9月18日・月曜日)には、このところ途絶えがちになっていた文章を恐るおそる書いた。のちに読んでみると、曲がりなりにも、わが意は尽くされていた。いくぶん気をよくして、きょう(9月19日・火曜日)もまた、パソコンを起ち上げている。夜長になり始めているせいで、デジタル時刻は未だ夜明け前にある(5:02)。
 あす(9月20日・水曜日)は、秋彼岸の入り日である。日を重ねて中ごろには、文字どおり秋彼岸の中日、いわゆる「秋分の日」(9月23日・土曜日)が訪れる。「暑さ寒さも彼岸まで」。わが身にすれば、とうに夏風邪などお蔵入りしていいはずである。世間は、冬季特有のインフルエンザの早いお出ましに、戦々恐々のようである。もちろん、インフルエンザなど真っ平御免蒙りたいけれど、わが身体は今なお夏風邪が収まらず、まるで周回いや二、三周回遅れの様相にある。
 春夏秋冬、すなわち季節は、正規軌道に乗っかり、ほぼ順調にめぐっている。未だに9月の半ばにすぎないのに気候は、ときおり残暑をちらつかせては、すっかり秋モードに変わっている。それなのにきのうの私は、気候の恵みを放棄したかのようにほぼ一日中、茶の間に籠っていた。言うなれば私は、残暑の厳しさと、秋天高い真っ青の日本晴れを、茶の間の窓ガラスを通して眺めているだけの、カタツムリみたいな一日に終始した。確かに、もったいないと言えばもったいない、敬老の日にあっての、わが身の処し方だったのである。
 茶の間に在って流し目は、阪神タイガース対横浜ベイスターズ戦、加えてリモコンを手にしながらの大相撲のテレビ観戦を繰り返していた。一方、意図した指先の主要な作業は、スマホのLINE機能を用いて、旧交をあたためることに意を尽くした。もちろん、敬老に日が促した善意の作業だった。これにちなむ返信メールや電話もたくさんいただいた。すると、それらのすべての人たちは、心身共に溌溂と年齢を重ねられていた。挙句、マイナス思考や愚痴こぼしの多いわが身が哀れだった。結論、わが身が確りしなければ、旧交はあたたまるどころか、冷めゆくばかりだと、悟った日だった。
 わが夏風邪と憂鬱気分の癒しは、秋の天高い夜明けの日本晴れに尽きる。きょうの私は、ふるさと便で賜った生栗のレシピ(茹で栗、栗御飯、栗団子)選びに、うれしい悲鳴を上げそうである。冠の秋、到来。私の場合、先陣を切るのは、「食欲の秋」がうってつけである。こんな文章、二日続けて書く価値はないように思えている。