惜しむ夏

 8月25日(金曜日)、未だ夜明け前にある。清々しい夏の夜明けを望んでいる。日本の国の真夏の風物詩と言われる高校野球は、107年ぶりに慶応高校(神奈川県代表校)が優勝を果たして終幕した。確かに、「栄冠には涙あり」。半面、甲子園球場は「オール慶応の応援団」で埋め尽くされ、かつ応援の仕方にいくらかの賛否を招いている。しかしながら、107年ぶりともなると、慶応高校に絡んでいれば熱狂応援は、壮観を極めても仕方のないところであろう。まずは、快挙を寿ぐところである。
 高校野球が終われば気候は、それまでどんなに暑い夏であっても、しだいに「惜しむ夏」へと移って行く。何事においても絶頂の物事は、終われば寂しさつのるものがある。確かにこの夏は、極めて暑い夏の連続だった。加えて、夕立はおろか、瞬時の日照り雨さえ降らない日照り続きだった。このことでわが身に堪えたのは、わが清掃区域の道路に、早やてまわしに枯れた落ち葉が敷き詰めていることだった。これには、日々往生するところがある。
 さて、どんなに暑くても生きているかぎり、日常生活は賄わなければならないという、生存の掟がある。掟に従いわがことで命に栄養を与え続けることは、普段の買い物行である。具体的には食料という買い物を断てば、たちまちわが命は枯葉のごとく枯れる。確かに、いっとき薬剤の点滴にすがる方法はある。しかしながらこれは、命にすれば何の足しにもならない。いや逆に、生き長らえようとする命をかえって蝕むだけである。「医食同源」という言葉があるけれど、この真意を歪めて書けば、命にとって大事なことでは、医術(薬剤)より食料のほうがはるかに勝っている。こんな野暮なことを心中に浮かべて私は、ちょっと動けば汗あふれる炎天下、食料買い出しの買い物行を繰り返している。
 わが買い物帰りの姿は、ほぼ決まってこうである。背中には大型の国防色のリュックを背負い、利き手の右手、そして左手、どちらにも市販の布既成の買い物袋の両提げである。それらにあふれるほどに嵩張るものを詰め、重たくてヨロヨロ足でわが家への帰途についている。かつては妻同行の買い物行もあったけれど、妻の身が壊れている現在は、専一わが単独行へ成り下がっている。もちろん、主要区間の往復には、「江ノ電バス」の乗車にありついている。しかしとうとう私は、茶の間の妻に対し、弱音を吐いた。
「買い物の帰りは、タクシーにするよ」
「パパ。いつもなの?」
「いつもではないけど、……、もうこりごりだよ」
 嗚呼、恨めしや! 「買い物難民」という言葉がわが身に、現実味を帯び始めている。
 汗だくだくで帰れば、茶の間の妻の早速の施しは、氷を山ほどに浮かべたコップいっぱいの水道水と、さらには買い置きの「井村屋のアズキバー(アイスキャンデー)」である。確かに、一杯の水道水も一本のアイスキャンデーも、食料の範疇なのであろう。それまでの不平不満は消えて、わが命は鼓動を打って、息づくのである。点滴では味わえない快感でもある。
 「惜しむ夏」、大空いっぱいにピカピカと光る、清々しい日本晴れの夏の朝が訪れている。人間の日常生活は案外、だれしもこんなところであろう。生きる悦びは、欲張らずこれぐらいで、十分なのかもしれない。