季節の恵み

 8月26日(土曜日)、清々しくかつのどかに夜明けが訪れている。これまで、夏の朝という表現を多く用いてきたけれど、もうお蔵入りにしなければならない。なぜなら、季節は秋冷の候にある。朝夕の風、昼間の大空そして日光は、すっかり秋の装いへ変わっている。風はさわやかに冷えて、大空は天高く深海の色のごとくに青色を深めている。未だに残暑の候は続くけれど、それとてもはや期間限定である。
 人間いや私は、欲張りである。夏が過ぎようとすれば、夏の長居を願うところがある。去りゆくものへの挽歌と言えるものなのかもしれない。それはそれで人間特有の心情であり、捨て去るものでも、恥ずべきものでもない。いや、誇らしいものなのかもしれない。「生きとし生けるもの」にあって人間は、唯一感情の動物である。すると感情のほとばしりは、イの一番に季節感に表れる。すなわち人間は、季節感に鈍感になったときこそ、もはや「生きる屍(しかばね)」と、言えそうである。だとしたら私は、まだ生きている。
 雨戸開けっぴろげの前面の窓ガラスを通して私は、一か所白雲を抱く広大な青空を眺めている。「早起きは三文の徳」。いやいや、測り知れない無償の眺め、徳だらけの空の眺めである。煩悩渦巻く人間界ではほとんどあり得ないけれど、自然界の恵みには素直に癒される。
 きょうの文章はネタなく、いや仕方なくこれで閉めるところである。そしてなおこの先、大空を眺め続けることにする。自然界の恵みには限りをつけることなく、私は存分に浸りたいのである。自然界ではウグイス、セミに代わり、虫たちが集(すだ)いて、出番を待っている。これまた、季節の恵みである。