恨めしい朝日の輝き

 7月12日(水曜日)、時間はまだ早いけれど、日長の頃であり、薄っすらと夜明けが訪れている(4:29)。大空は、淡く彩雲をちりばめている。未だに梅雨の合間の晴れの夜明けだろうか。それとも、気象庁の梅雨明け宣言のしくじりによる、すでに梅雨が明けている夏空の晴れだろうか。どちらにしても穏やかな大空の眺望である。
 ところが、こんな暢気な表現はご法度である。このところのテレビ映像はほぼ連日、九州地方を中心にして所を変えて、豪雨惨禍の恐ろしさを伝えている。豪雨のもたらす災害は、洪水、増水、濁流など、加えて土砂崩れや山津波(鉄砲水)などである。とりわけ洪水は、住宅や田園を水浸しにしたり、土砂崩れは直下の家屋を倒壊させる。もちろん、死亡者および行方不明者という、人の命を絶つ惨禍は、そのたびに多大である。
 わが生誕の地は、当時の熊本県鹿本郡内田村(現在、山鹿市菊鹿町)である。生家は「内田川」の川岸に建ち、生業は内田川から分水を引いて水車を回し、精米業を営んでいた。それゆえに私は、豪雨のたびに生家(母屋)の裏を流れる内田川の増水の恐ろしさを体験している。内田川にかぎらず、川の増水の恐ろしさは、洪水災害を引き起こし、まさしく「百聞は一見に如かず」であり、テレビ映像に観るとおりである。土砂崩れの恐ろしさもまた然りである。川上から轟轟(ごうごう)と唸りを立てて、岩石、材木、家屋の調度品(畳など)が流れゆく光景を見遣る心境は、もはや生きた心地などあり得ない。この光景の恐ろしさは、今でもわが心象のトラウマ(心的外傷)となり、テレビ映像を観るたびにわが心中を脅かしている。
 ところがきのうは豪雨災害の映像に加えて、関東地方のある地域における竜巻惨禍も映し出された。竜巻は未体験だが、一瞬にして家屋が吹っ飛ぶ光景の恐ろしさはこれまた限りなく、残念無念の心地である。
 朝日がのどかに輝き始めている。しかし、きょうの夜明けだけには恨めしく、このところ続いている自然界賛歌は、パタッとお預けである。