7月9日(日曜日)、きのうの朝の空模様を繰り返し、曇天の梅雨空を眺めている。網戸から入る風は冷ややかに、わが身に吹きつける。夏風、秋風、それともまだ梅雨の風。こんなことはどうでもいい。ネタのない文章の行間埋めに、書いたにすぎない。ただ、きのうとは異なる、確かな朝が来たことだけは明確な事実である。
朝が来れば起きなければならない。夜になれば寝なければならない。この間に人は、生きるための活動(生活)をしなければならない。生活の基本は、命を絶やさないための食べることの繰り返しである。しかしながらそれには自給自足では賄いきれない、食材購入のためのお金が要る。もちろん生身の人の体は、命絶えるまで無病息災などあり得ず、多額の医療費が必要になる。人は、ひとりでは生きられない。老いては茶飲み友達が欲しくなる。若いうちには恋愛もしたくなる。あわよくば結婚もしたくなる。おのずから交際費が必要になる。結婚すれば必然と、子どもが生まれてくる。親のメンツが擡げて来て、わが子をバカ呼ばわりはされたくない。これまた必然と教育費が嵩んでくる。(朝が来たから起きよう、夜になったから寝よう)とはいかなくなる。結局人は、他人様との競争場裏において、お金稼ぎの行動を強いられる羽目となる。競争にあっては天賦(生まれながらの富裕族)でないかぎり、過酷な労働を強いられる。
人生とは、ざっとこんなものであろう。人生の晩年を生きる、わが身に照らした人生論のほんのさわりである。10分間ほどの書き殴りで、こんなことしか書けない「ひぐらしの記」は、確かな終焉の時を迎えている。パソコンを閉じれば、道路の掃除と庭中の草取りを予定である。無償であっても人には、余儀ない様々な日常生活がある。幸か不幸か私にも、まだ様々にある。明日には歯医者通いがある。これも、その一つである。御飯を美味しく食べる楽しみが無くなれば、もはや生きる価値(甲斐)はない。
のどかに、朝日が輝き始めている。愚痴はこぼすけれど何度来ても朝は、純粋にわが心が和むときである。