雨の梅雨空

 7月6日(木曜日)、パソコンを起ち上げてしばし、雨戸開けっ放しの前面の窓ガラスを通して、大空模様を眺めている。模様と表現することもない、一点の曇り空から雨が降りしきるだけである。あえて模様と表現するには、単一の空模様ではなく、錯綜する心模様が適当である。なぜなら、心模様には様々なものが浮かんでくる。主に九州地方の豪雨惨禍で、梅雨明けかな? と、思えていた。ところが、自然界はこれだけでは物足らず、さらにはどこかに災害をもたらしたのち、梅雨は明けるのであろうか。
 あれ、雨をかぶりながら、電線に一羽の小鳥が飛んで来た。羽を振るわせ雨を落とすと、すぐにどこかへ飛んで行った。名を知らぬ小鳥は、慣れているはずなのに梅雨空に、戸惑っているのであろう。突然、見たままのことを書いてしまった。
 雨の梅雨空を眺めながら私が浮かべていたのは、望郷につのるこの時期のふるさと光景だったのである。実際には子どもの頃のこの時期に、しょっちゅう眺めていた大空が髣髴していたのである。ありえないけれどもし仮に、眺めている大空の下、水田があれば当時のこの時期の、ふるさと光景の丸写しに思えている。戸口元に掛かる蓑笠を着けて、田んぼ回りをする老いた父の面影が浮かんだ。眺めている雨の梅雨空は、鬱陶しさを撥ね退けて、なんだか心が和む光景である。
 雨にはそよ風が混じり、空き家に残された高木をユラユラ揺らしている。こちらは、やがてわが身に訪れる切ない光景である。雨の梅雨空にあって、心模様は尽きないけれど、尻切れトンボにこれで指止めである。それでも、恥じ入ることもなく、かまわない。なぜなら、ネタなく休むつもりだった、いたずら書きの番外編だからである。パソコンを閉じても、雨の梅雨空を眺め続けるであろう。望郷にかぎりはない。